君に疵を残すのが、この手だけであればいい



 とりあえず、バイク取ってくるよ。
 自分は感知しない、というように雲雀が去った後、広場を満たすのはひたすらに沈黙だ。
 星の降る音すら聞こえてきそうな。
 握り締めた指輪と鎖をしまうのに動かした、微かな金属音や衣擦れの音さえ五月蝿く空気を揺らしてしまう。
「―――その指輪」
「っ、へ!?」
「その指輪、どうするんですか?」
 ボンゴレの守護者の証、なのでしょう?
 長く右眼の上に落ちかかる前髪を耳の後ろに流して、深い藍の瞳で示されるのは、今まさにパーカーのポケットに突っ込んだばかりの霧の指輪。
「あー…どうするか、っていうのは正直、あんまり決めてなかったなあ…。大分前から決めてたのに、考えもしなかったや」
 またリボーンに怒られんのかなあ、と苦笑交じりに続ける綱吉に、骸が小さくため息を吐く。
 大分、前=B
 そういうからには。
「あの日―――夏休みの終わり頃、君が最後に言ったのはそういう意味だったんですね」
 僕としたことが、全く気付きませんでしたよ。
 自嘲とも揶揄ともつかぬ調子で告げられることに思い当たって、綱吉はわずかに苦笑の色を濃くする。
 ノスタルジーの暗喩に満ちたような、夏休みの終わり間近。
 日暮れ刻。
 ミルクティ色のワンピースと砂糖菓子のようなレースのボレロを羽織って、少女本人が決してしないようなあまく妖しい、毒を秘めた蜜の滴るように微笑んだ、少女。
 少女の肉体で訪ね来た、目の前の青年。
 マフィアに馴れ合うなんて、と激した少女に、綱吉は、それでいいよ、と、ありがとう、と、微笑んだのだ。
 くはっ、と吐き捨てる青年の笑み声。
 まるで別れ言葉だ、と感じた自分の思考は感傷でもなく紛れもない事実を突いていたらしい。
「む、骸?」
 石像に身を寄せたまま身体を二つ折りにして笑い続ける骸の様子に、訳の知れない綱吉はひどく困惑げにその名を呼ぶ。
 しかし、聞こえているのかいないのか、声に応じる様子はなくて。
「ちょ、おいっ!?」
 ずるずると、へたり込むように二つ折りになった痩身が座り込む。
 慌てて駆け寄れば、淡い月光にも全身が濡れそぼり、笑いのせいか寒さのせいかはしれないが細身の体が小刻みに震えている。肉の削げ落ちた細い肩や腕の細さに、改めてぞっとしたものが綱吉の背を駆け下りるようで。
「おいっ、骸!?むくろ!!立ってんのも辛いんなら寝てろって!ほら!オレのパーカー分厚いから髪くらい拭けるし!」
 言いながら、ひどく簡単なことのようにあっさりと、伸ばし差し出される綱吉の手。
 本当に、ひどく、単純で、簡単なことのように。
 パイル地の裏地のパーカーを長い髪に覆われた頭に被せるも、小刻みに震える相手は何の反応も見せず。
 けれどその一連の行為は骸の裡のどこかを、ひどく掻いたのだろう。伸ばされた綱吉の腕を逆手にとって、骸はその動きを妨げにかかる。
 驚いて、抗うように目の前に晒された骸の薄すぎる肩に手を置いて、少し強引に引くようにすれば、どこにそんな力があるのか、筋の浮くような細い指先が更にきつく肉の薄い肌に食い込んで。
 しかしその手は、そのまま何をするでもなく、縋るように握りしめるばかり、で。
「むくろ…?」
 重苦しいような、痛むような。
 どこか骸らしからぬその所作や空気に、思わずというように綱吉が名を呼べば、次の瞬間それらはひどく奇麗に霧散して。
 けれど、押さえきれないように伝わる震えの名残は、やはり嗤いのためなのか寒さのためなのかは、杳として知れず。
「…僕に、こんな所で寝ろって言うんですか、君。下、石ですよ、石。それとも何ですか?君が膝枕でもしてくれるっていうんですか?」
「なっ、はああっ!?」
「いやー、ドン・ボンゴレ自ら膝枕とは、冥利につきますねぇ」
「いやいやいやしないからっ!!膝枕なんてしないからな!?」
 ていうか男の膝枕なんて何が嬉しいんだよっ!!
 心底からの絶叫に、触れる骸の肩から伝わる振動が明らかに、大きくなる。―――どうやら今度の震えは、笑いらしい。
 気付いた綱吉が憮然と肩から手を離し、離れようとするのを、けれど半袖からのぞく剥き出しの腕を掴む骸の手が強引に引き止めて。
 ぐ、と腕にかかる、力。
「ねえ、綱吉くん」

「じゃあ、代わりのお願いを聞いて下さい」

 え、と思う間もなく、強く引かれた腕のままに倒れ込むようにして、骸の肩に半ば覆い被さるようにしてその下の段差に膝をつく。足を投げ出すように座る骸は円形劇場の一つ上の段。
 綱吉の方が、丁度下から掬い上げるように覗き込む、体勢。
 被せたパーカーの奥。
 濡れて額に張り付く髪が少しずつ、重力に従うようにゆっくりとその白い肌から剥がれていって。
 てらり、と。
 まるで深海のような暗い藍色が、月光に妖しく艶めく。
 その向こう。
 しなるように弧を描く、右眼。
 夜の中。
 両脇に垂れるパーカーの布地が、帳(とばり)のように光も視界も遮る中、で。
 ぬらり、とまるでそれ自体が何か生き物のように光る、紅。
 紅の、右眼。
 ぞくりと背を駆ける、怖気こそが最大の警鐘。
「ねえ、綱吉くん」
 呼びかける声が、どこか遠い。
 ゆらと揺らぐのは、身体か、視界か、―――それとも。
 目の前の、血を凝らせたかのような紅、か。

「僕を、―――」


 ゆらり、
 紅が、





( 消 シ テ 下 サ イ )





 焦点を失った、飴色の瞳。それでも濁ることなど知らないらしいその色に小さく笑んでやりながら、骸は口の中だけでいい子ですね、と呟いてやる。
 幼さの濃い顔が、意思の光をなくして、尚更に幼く。まるで、初めて出会った頃のように―――否、もしかしたら、それ以上に。
 やわらかな曲線を残す頬をするりと指先で撫で下ろし、細い顎を優しく掴む。そのまま口接けでも施すかのように持ち上げて、自身の身を更に屈め。
 唇を寄せるのは、耳元。
 けれど視線だけは外さずに。
「綱吉くん、何か、武器になるもの、持ってきているでしょう?」
 注ぎ込むように囁く声音は、殊更に甘く。
 まるでその内容の物騒さなど感じさせないように、まるで睦言のように、甘く、あまく。
「ぶ、き、…?」
「そう、武器。拳銃や、ナイフや―――ああ君は、鞭を使うんでしたっけ?」
 何か、持ってきているでしょう、と。
 人形のように表情の抜け落ちた瞳で、ぼんやりと見返してくる綱吉に、笑みながら骸が告げれば。
「ん…」
 こくりと、幼子のように頼りなく頷く、細い首。
 それから、ちゃんと持ってきたよ、と、続けられる、声。
 ちゃんと持ってきた。
 言われた通り。
「いい子ですね。…何を持ってきたんですか」
「…ナイフ、が…」
「どこに?」
「ぽけっと…じーんず、の…うしろ、…」
 言葉と共に、顎を支えるのと反対の手で骸が綱吉の腰へと手を回せば、確かに固い感触。そのまま手探りでポケットの中を探し、きついその中に手をつっこめば確かに手のひらに収まるほどの折り畳み式のサバイバルナイフ。
 それにうっそりと微笑んで、骸は手を戻す。
 その手の中には、危うい刃。
「綱吉くん、手を出して。右手」
「みぎ、て…?」
「そう…いい子ですね。これを、しっかり握って…」
 差し伸べられた手に握らせるのは、危うい刃。
 小さな手だ、とは、つい最近、いつかも思ったこと。

「これで、ここ、を刺して、切り裂いて下さい」

 思い切り。
 失敗など、しないように。
 言って白く細い指先が示すのは、自らの首筋。
 耳の下、顎の線からゆるやかに筋の浮かぶ半ば、首の横辺り。
 浅く、頸動脈の、走る。
 戸惑うように無垢に揺れる飴色に安心させるようにやわらかに笑み返し、導くように骸はわずかにその細い顎を仰のけて、白い首を晒す。
「ねえ、綱吉くん」

「暴いたのが君でさえなければ、君を殺して終われたのに」

 自分の弱みを晒したまま、生きていけるほど強くも、そして低い矜持でもないことは、誰より自分が知っている。
 それだけで、生きてきたのだ。
 ただ支配されたまま死んでたまるかという、反駁じみた不安定で確固たる自我と、それを支える矜持と憎悪、だけで。
 けれど。
 彼との繋がりを絶たれた世界で生きていく術が、思い描けない。
 共にいたいわけではない。
 同じ道を歩きたいわけでもない。
 ただ貪欲なまでに、『生きたい』だけ。
 それだけ、なのだけれど。

 目は閉じない。
 紅は消えない。

飴色を捉える限り、綱吉は骸に逆らえない。
埋め込まれた、骸の殺戮の衝動に、抗えない。
 それはあの日、雲雀とリボーンを出し抜き、復讐者とチェルベッロの目を欺いてまで、沈む夕日に血色のように染まったベッドの上に組み敷いた綱吉に注ぎ込んだ、暗示。
うっそりと、至福を覗くように笑みに歪む紅を見つめたまま、大人とも子供ともつかぬ手が危うく握り締めた刃が、今、まさに、示され導かれた位置に突き立てようと、振り上げられて。



「―――――っ!!!」



 肉の裂ける音。
 血の臭い。

 視界を染め上げる、熱と緋色。





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