君に疵を残すのが、この手だけであればいい



こぽり、
  ―――こぽ、





 空気が凍る。
 そう思えるほどの沈黙が場を満たした、次の瞬間。
「沢田っ、」
 復讐者の一人が素早い動作で間合いを詰める。
 雲雀が咄嗟に手を伸ばすよりも一瞬早く、翻る危うい銀色。
「君は、引いてください」
 雲雀恭弥。

 響く、声。



「―――っ!」
 硬直する綱吉の首筋に、ざらりとした布の感触、と。
「本っ当に馬鹿ですよねぇ、君は」
 隙だらけ、ですよ。
 心底から馬鹿にするような、全くに温度のない笑みと声。それでいながら芝居がかったその口調はとてもよく知るものなのに、その声は全く耳に馴染まぬ、聞き覚えのないもの。
 目の端に映るのは、白の包帯に包まれた手指、と。
「っ、お、まえ…」
 背後を取られ、薄い首筋の皮膚に突きつけられる、のは。

「むく、ろ―――…?」

 三叉槍の、短い穂先。


 呆然と瞠る目の端に、手の甲を押さえて忌々しげに綱吉を―――否、綱吉の背後を睨めつける、不穏な漆黒の双眸。
 その視線も綱吉の呼びかけも知らぬげに、個のない声に確固たる個を宿して、とてもよく知る皮肉めいた響きが、場の空気全てをあっさりと無視して、続ける。



「さあ、取引成立ですよ、復讐者」



 朗々と、謳うように声が告げて。
 ざらりとした布越しの指先と手のひらが、辿って覆う首筋のある箇所が、ぴり、とわずかに鋭く引き攣る。
 それは忘れかけた、覚えのある感覚。
 思わず痛みに気をとられ、眉値を寄せる綱吉の耳に。
「ここで彼の首筋を切り裂くなり、もしくはほんの小さな傷一つでもこの肉体は僕の支配下だ。―――ボンゴレ十世は、こちらの手の中です」
 だから。

「僕の肉体(カラダ)を解放して頂きましょうか?」

「な、っ…!?」
 後ろから、ひどく当然のことのように響いた言葉に、綱吉は思わず声を上げる。
 何を考えているのか、分からない。
 裏切った、と聞かされてもいまいち実感がなかったのは、骸の望みの在り処がそこではないことをどこかで分かっていたせい。
 分かっていたつもり、だったせい。
 骸は明らかに、復讐者の檻から逃れることを望んではいないと、綱吉はどこかで信じ込んでいたのだ。よくよく考えれば、それはひどくおかしなことなのだけれど。
 だからこそ、いま綱吉が動いているのは、紛れもなく綱吉の我侭でしかなく。
 けれど、注ぎ込まれるように耳元で響く骸の声に、それまでの認識がぐらりと揺らぐ。
 では、骸は、檻から逃れたかったのだろうか。
 けれど今、それを持ち出す意味も。
 この場で、自分にそれを聞かせる意味も。
 骸は今、まさにボンゴレとも、取引をしている最中だというのに。
 六道骸は忠誠を。
 ボンゴレは凪と千種と犬の、保護を。
 ―――それは、裏を返せば、骸に対する人質だと、いうのに。
「お、まえっ!なに…!」
 身を捩る。
 振り向いたところで正面の白と黒とで構成された人型の異形しかないことはどこか冷静な頭の片隅では分かっていたけれど、それでも。
 それでも、振り向かないではおれず。
「おっと。暴れないで頂けますか?傷を作るのは、僕も本意じゃない」
 いずれ、僕が動かすことになるのですから。
 飄々と、まるで明日の天気の話のように何気なく告げられる言葉は、全くにその真意を知らせはせず、とてもじゃないがそんな心境で聞けるものではない。
 尚も押さえ付ける腕を振り解こうともがく綱吉の体を、黒のスーツの腕が更なる力で押さえ付けて。
「ぃっ!」
「申し訳ありませんね、次期ボンゴレ。君を消せ、というのが彼らとの取引です。僕らを助けたい、なんていうのが口だけじゃないなら、それくらいのこと、できますよね?」
 何せ、君一人がただこの世から消えるだけ、でいいのだから。
「だから邪魔、しないで頂けますか?」
 笑みすら含むようなその声に、綱吉の奥歯が擦れてぎしりと嫌な音を立てる。
 裏切られた、という思いよりも、ただひたすらに痛くて苦しい。
 それほどに、自分に助けられるのが嫌なのかと。
 ―――自分は信じるに足る存在では、ないのかと。
 骸を助けるといった言葉こそが骸の神経を逆撫でし、わざわざこれほどに危険な方法をとったのだとしたら。その責任は、間違いなく、不用意にそんな言葉を発した綱吉にあるのだろう。
 そして、復讐者に『彼女』の存在がばれてしまっていた、と分かった今では。
 そこまで思って、綱吉の唇から、ああ、とひどく辛いようなため息が思わず漏れる。
 骸が何のために―――誰のためにここまでするのか、なんて綱吉には嫌というほどに分かれてしまうのだ。
 骸は、自分のためには動かない。
 とことんまで自分が嫌う、『自分』という存在を、救うために動くわけなど、ない。
 それでも彼が、動いたと、言うことは。
 瞼裏に蘇るのは、大きな隻眼を泣きそうに歪めた少女。
 先ほど雲雀の口から出た名前に、動揺したのは何も綱吉ばかりではなかっただろう。
 意識を飛ばすように瞳を伏せ、唐突に抵抗をやめた身体に背後からあからさまに伝わる困惑の気配。それでも骸は、それを表に出すようなことはせず。
「そう―――いい子ですね。―――復讐者の皆様?これでよろしいのでしょう?」
 取引は成った、と。
 再度繰り返す骸の言葉に。
「ヨカロウ」
「取引ハ成立シタ」
「シカシ、」
 そこで、意味ありげに切られる声。
 それに困惑を示したのは、何も綱吉ばかりではないらしく。
「しかし?」
 言葉の先を促すように、繰り返す。
 ひどく静かな響きではあったけれど、触れ合う綱吉の体に確かに動揺が伝わってくるのがひどく意外だ。
 思いながら、綱吉はゆっくりと周囲の気配を探るが、感じ取れるのは濁った殺意めいた空気ばかりで。今まで、本気の、純粋な殺気に慣らされた身に、その空気はひどく重く、気持ちが悪い。
 そしてその空気を作り出す人型の異形は、どこか愉悦含みに言を継ぐ。
「対価ハ本当ニ、自ラノ肉体デヨイノカ?」
「―――何を言っているのですか?今更、反故にすることでも…?」
「否、否」
「ソウデハナイ。シカシ―――」

「コレヲ見テモ、オ前ノ望ミハ変ワラヌカ?」

 じゃらりと、重い鎖の音。
 何の気配もなく背後から響いたその音に、慌てて自分を押さえ付ける体ごと振り返れば。
「…犬、千種」
 苦渋に満ちた表情で、首枷の鎖を引かれて現れたのは、現在ボンゴレの監視下にあるはずの二人の青年で。
 最悪の展開だ、と切れるほど唇を噛み締める、綱吉の横。
 ―――漆黒に縁取られた美貌が、ほんのわずか口の端を持ち上げたことに、気付いた者はいなかった。



 灰色の部屋の中、満ちる空気は痛いほど緊張を孕んで。
 その空気を生み出しているのは―――綱吉の背後の男だ。
 触れれば切れそうな空気のまま、どこか緊張したように、縋るように、自分を捕らえる腕に力が込められて。その腕に触れて宥めてやりたい心地になりながらも、何とかその衝動を堪える。
 ―――それは何の解決にもならない行為だ。
 立てた作戦、組んだ計画、揃えた駒、描いた青写真。何もかも狂ってしまった現状で、踏み出す一歩を定められない。
 どうすれば。
 どうすれば、誰一人欠けることなく、帰ることができるだろうか。
 考えるのに、どうすれば、どうすれば、とそればかりが頭の中を回って、まともな思考一つ、できはしない。
 飼い殺す気かと嘲った、雲雀の言葉の意味が今になって見に沁みる。
 ぐ、と。悔しさに、熱く潤みかける飴色の瞳を、きつく閉じたところ、で。
「ねえ」
 低く響く、しなやかな美声。
 部屋を支配する空気など、何の妨げにもならぬというように。
「取引をしない?復讐者」
 普段と、それこそ出会った頃から変わらないような落ち着き払った声音で、雲雀が提案したのは、あまりにも、不遜といえば不遜な台詞。
そして、それゆえに、どこまでも彼らしい。
「こちらはボンゴレ十世の就任に際しての特赦を、その二人に求める」
 告げられた、言葉は。
 恐らくは、誰もが予想だにしえなかったろう、取引だ。



「正気カ?ボンゴレノ浮雲ヨ」
 真っ先に返したのは、当然のように復讐者の一人。感情の起伏に乏しい声にほんのわずか混じるのは、困惑と、苛立ち。
 そのことに機嫌を良くしたらしい雲雀の唇が、ひどく酷薄に笑み歪んで。
「当然。君達より余程正気だよ。―――別に、何の問題もないはずだろう?元々僕とその子は初めから、特赦を求めるためにここに来たんだ。―――まさか六道骸が死んでいるなんて思いもしなかったからね」
 まあ、死んだものは特赦の対象にも何も、できるわけがないよね。
 しゃあしゃあと言ってのける雲雀に、青くなるのは綱吉だ。
 特赦という、その制度。恩赦の一つであるそれは、国家慶事の際に発令される、特定の囚人に関して判決を無効化する効力を持つ。そして、自らをコーサ・ノストラと称し、「我等」と自称してはばからぬマフィア国家において、ドン・ボンゴレの襲名は紛れも無く国家慶事の筆頭に数え上げられるものだ。
 つまりそれは、正しく綱吉が自身と引き替えた切り札。
 古びて黴が生え、埃を被ったような、そんな制度まで持ち出して、ボンゴレを襲名することによって綱吉が得ることのできた、最後の最後、反則紛いの最強の切り札なのだ。
 それを今、ここで使われるとなると。
「ちょ、ヒバリさん!?」
 荒げる声は、けれど誰にも届かずに。
「ソレハ認メラレヌ。コノ者達ハ、霧ノ支配下。ボンゴレニ縁ガ深過ギル」
 特赦は慶事と権威を知らしめるためのものであって、私利私欲のために使われるものではない、と。
 平坦な声が続ける正論。
 そう、それは分かっているのだ。
 ザンザスの思惑の在り処は未だ分からぬままではあるけれど、ボンゴレ襲名によって霧の守護者の解放を求めることが叶わないことを綱吉は割合早い段階で気付いてはいた。
 それを決定的にしたのは、ここへ来る別れ際のリボーンの台詞。
 だからこそ自分は、凪に会ってきたのだ。
「ボンゴレに、縁?何を言っているんだい?」
 復讐者の言葉に、嘲りも顕わな雲雀の言い様。わずかに色めき立つような相手に怯むどころか気にかける風もなく、雲雀は続ける。
「霧の守護者―――六道骸が死んだと言ったのは、君達じゃない。彼らの主は六道骸で、その他の誰にも忠誠を誓ったなんてことはない。彼らは主の意にのみ忠実だ。そして主が死んだ今、彼らとボンゴレを繋ぐものなど、何一つとして、ない」
「っ、ヒバリさん!!」
 やめろ、と。
 拒絶の意志を込めて必死な瞳が訴えてくるのを無視して、雲雀は薄い笑みのまま言葉を継ぐ。それらの光景を見下ろすようにわずかに高い位置にある水牢の中の骸は、無数の枷と鎖とコードとチューブに繋がれたまま瞳を閉ざされ、隔絶された空間からこちらを認めることもないように、沈黙を守る。
 同じ空間、綱吉の背後で場を見守る骸も、また。
「それどころか、彼らは過去、ボンゴレ十代目をそれと知って襲撃している。言うなれば、敵だ。そんな相手に特赦というのは―――ドン・ボンゴレの箔付けには、十分だよね」
 綱吉の声など聞こえぬげに、続ける雲雀の端正な顔は面白がるような薄い笑みで彩られたまま。
 その様子に、さすがの綱吉も違和感を禁じえない。
 そもそも本末転倒なのだ。
 骸の特赦が成れば、千種と犬を切り捨てねばならない。
 千種と犬の特赦が成れば、骸を切り捨てねばならない。
 そして時間をおけば、今度失われるのは凪だ。
 何より、今、綱吉の命を握っているのは骸―――ひいていえば、骸と取引をしたという、復讐者で。特赦を施行し得るのは、綱吉自身   ―――その命も意志をも含めてボンゴレを継いだ、沢田綱吉だけで、あるのに。
 二律背反どころか、三疎み。
 それも、かなりこちらに分の悪い。そんな、綱吉ですら分かり得ることを、雲雀が見落とすはずもなくて。
 訝しむ綱吉の視線に、一度だけ流される漆黒の瞳。
 それに、直感的に感じるものがあったのは、ボンゴレの血によるものなのか、それとも気付けば長い付き合いの中で培われた経験によるものなのか。
 何にせよ。
 その視線の流れ一つで、綱吉は雲雀がはじめから計算ずくであったことを理解する。
 全て、ではないかもしれない。けれど今、この場で行われているイレギュラーなはずの状況さえ、雲雀にとっては予想の内であるよう。
 す、と頭の内が冷える感覚。
 昇っていた血が下りる。
 それは冷静になったというよりも、どこか虚脱に近いものだったが。
「―――ボンゴレノ浮雲ヨ。デハソチラハ、何デ取リ引キするツモリダ?」
「何って勿論、君達の正体だよ。復讐者―――法の番人」
 G - e - o - t ? t - o
 雲雀が口にするのは六文字のアルファベット。
 それはこの部屋を開くパスワードであり、同時に初代ボンゴレの本名と全くに同じ綴り。
 ―――それはやはり、偶然ではないらしく。
「Geotto。そんな名前の男が、初代ボンゴレにいたらしいね。そして、復讐者が設立されたのは紛れもなく彼のため、だろう?入室パスワードに設定するほどには」
 それほどに、憎悪は深い?
「浮雲ヨ―――」
「ソレヲ、ドコデ」
「さあね」
 混沌としていた殺意が不意に鋭さを増す。純度を増した、正確な殺意。肌をひりつかせるようなそれに、雲雀の顔が鮮やかな喜悦に染まる。
「ねえ、この辺で取引してしまっておいた方がいいと思うよ。これは僕からの忠告だ」
 忠告なんて柄でもないことを、全くそんな雰囲気でなく殺意を漲らせて言ってのける雲雀に、
「…ドチラニシロ、認メラレヌ。我等ガマフィア組織ノ一角デアル限リ、王トスラ呼バレルボンゴレノ血ニハ敬意ヲ払イハスルガ、ソノ男ノ就任ヲ認メタワケデハナイ」
「ソモソモ、ボンゴレヲ継ゲヌノデアレバ、特赦ナド発布モデキヌダロウ」
「我等ハ断ジテ、ソノ者ヲ―――沢田綱吉ヲ、ボンゴレ十世トシテ認メルコトハデキヌノダ」
 告げる声ばかりは、色もなく淡々と。けれど気味の悪いほどに濁った色味で向けられる、のは。
 紛れもなく、どうしようもなく、不明瞭な憎悪と―――羨望、のような。
「ふうん?」
 獰猛な獣の笑みが、怜悧な美貌を怪しく彩る。
 もう待ち切れるものか、と。
 そう言わんばかりに。
「分かってないね、復讐者。折角時間をあげたのに。言い方を変えようか?彼を止めてやろう、と言っているんだよ、僕は」

「おめでたいね。自分たちの力で捕まえたわけでもないくせに」
 それともそれにすら、気付いていない?

 皮肉な笑みが、告げ終えるか、終えないか。
 その瞬間。
 目の端を、鈍い銀が翻る。
 耳元を鋭い風が通り過ぎ。
 水牢のすぐ脇、積み上げられた様々な機械の、その上の一つに迷いなく深々と、つい先程まで首筋にあったはずの三叉槍が突き刺さり。
 刹那、灰色の世界が乳白色で包まれたと気付いた次には。
 いつの間にかとうに十組を超えて居並んでいた復讐者達の内半数が、何の前触れもなく地に、臥せった。



「全く、扱いきれない駒なら、使うんじゃないよ」
 そもそも喧嘩を売る相手を、間違えているけれど。

 灰色の血溜まりの中。
 惚けたように呆然と、その光景を見つめているしかできなかった綱吉とは対照的に、離れた壁に背を預け眼前で繰り広げられる殺戮ともつかない光景に、珍しく手を出す素振りすら見せない雲雀は馬鹿馬鹿しいとばかりに吐き捨てる。
「そいつが、取引に『自分』を持ち出すわけがないじゃない」
 それを見誤った時点で、復讐者たちの負けだ。
 尋常ではない濃さを重ねいく血生臭さとは裏腹の、ひどく軽く、薄っぺらな呟き。
 それは暗に、見誤りかけた綱吉を揶揄するようにも響いて。
 ―――ただの被害妄想かも、しれないけれど。

「ねえ、」
「そうは、思わない?」

 あからさまにそう、問われてしまえば、一概に被害妄想とも、思えず。
 そして、低い美声が問うことは。
 言外に問われるのは。
 己の力量と、それから。



「タ、スケ…」
 細い息と共に足元に縋り付いてきた白と黒を血染めにした異相。急所だろうがなかろうが散々に切り裂かれたその傷は、全てが深く、溢れる自らの血に染め上げられたその姿は、ひどく現実味はないものの、慣れぬ綱吉には目口を覆い、背けたくなるほどの。
 実際には目を背けるどころか伏せることすらままならず、石になったかのように動くことすらできなくて。
「五月蝿いな」
 冷えた声と共に、その男を蹴り上げた、黒革の爪先。
「、ああ」
 零れた声は、咎めるためのものだったのか、哀れむためのものだったのか。それは、それを唯一聞いていただろう蹴り上げた靴の持ち主どころか、綱吉本人にも分からぬことだったけれど。
「認めぬ殺すと言った口で、よくも助けを求められるものだね。しかも相手はマフィアで―――ボンゴレだと,いうのに」
 ねえ、そんな僕らに助けを求めようなんて、本当に馬鹿げていると思わない?
 その台詞に。
 冷ややかで、それでいて艶を帯びて響くその声に。

「全くですね」

 重なる声は、身体中を濡らすままの水そのもののように、熱く妖しく、凍え、

 全ては膿みきった闇を取り仕切る、そのファミリーの思惑の内であったのだと、言葉なく告げた雲雀の声を言葉を聞くことなく、血塗れの男は骸の長槍にその喉を深く貫き切り裂かれて。
 絶えた。





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