棺は捨ててしまった
小型の飛行機の中は、狭いとはいえそれなりに快適だった。プロペラ機ではなくジェットエンジンを積んであるらしい飛行機の乗り心地は思うよりずっと悪くなく、狭いとはいえ乗客が二人だけとなれば十分過ぎるスペースである。
離陸からしばらく後、言われるままにシートベルトを外した後には、向かい合った雲雀と昼食を共にして、あまつさえ食後には手ずから淹れられたお茶までご馳走になってしまった。
それからは話すこともなく、ぼんやりと前に座る雲雀を見ていて。
スーツ姿で書類に目を落とす姿がひどく大人びて、様になっていて。
何とはなしに、遠いと思う。
―――いつものこと、だったけれど。
「―――眠いなら寝てれば」
ぱらと紙を捲るしな、ほんのわずかだけ上げられた漆黒の双眸。一瞬かち合った視線に綱吉は激しく動揺するが、雲雀は興味なさげに、すぐにすいと視線を書類に戻す。そのことにほっと息を吐いて、綱吉は全身からようやく力を抜く。
恐らくは今朝から、ずっと強張っていた。
力を抜けば、どっと疲労感が押し寄せてくるようで。
「…そう、します」
ありがとうございます、と苦笑交じりにはにかめば、別に、と素気ない、でも答えが返されて。
考えなければならないことはたくさんあったけれど、その穏やかな空気に誘われるように綱吉は静かに目を伏せた。
目の前の少年が眠りに就いてどのくらい経っただろうか。恐らく、二、三時間ではきかない。
日本時間に合わせたままの時計を見れば九時をとうに回っていて、夕飯も食べずに眠りこけているらしい少年に少し呆れる。ずっと書類に目を通したりパソコンをいじったりして、お茶の時間を挟んでいたとはいえ未だ夕食を摂っていない雲雀自身もあまり他人のことは言えないが。
手を止めたのは仕事に一区切りついたのと、目の前の空気がふと動いたような気がしたせい。思い、目を上げれば、いつの間にか座席を二つ使って上半身を倒していた綱吉が、目覚めそうに身じろいでいる。
お腹でも空いたのだろうか。
そんなことを思いながら、ぼんやりと開いた飴色の双眸を覗き込んで。
「―――つぅ、」
その名を呼んだのは、ただの気紛れ。
なのに。
「…きょーにーちゃん…」
舌足らずに、呼ばれた名、は。
「き、み…思い出したの…?」
それとも全部、憶えているの?
自分から仕掛けておいたくせにひどく動揺している自身を悟って、雲雀は思わず強く舌打ちをする。
情けない。
大体別に、動揺するほどのことでもないし、何より今回の件には関わってくることすらないはず。
それでも。
どくり、と心臓が嫌に脈打つ。
蘇える遠い記憶は、けれどごく最近に見た夢の景色と同じで、それゆえに遠いという感覚はひどく、薄い。
夢の中、そう呼んでいた子供の姿と、目の前の寝惚け眼の幼いような雰囲気が、眩暈のようにふと、重なる。
「…ふえ…?」
唇から洩れる幼い間抜け声。
ぱちぱちと、幾度かしばたかれる飴色。
そして。
「…え?ヒバリ、さん…?」
その答え、に。
安堵したのか落胆したのか。
それは雲雀自身にも、分からないけれど。
「ちょっと、いい加減に起きなよ」
まだ寝惚けたように霞がかった飴色に、雲雀はそれだけを返した。
* * *
「ねぇ、僕が君に ら、どうする―――?」
夢の続きを見るような心地の中、綱吉はぼんやりと周囲を瞳に映す。
見慣れない、小奇麗なような無機質なような狭い場所で、耳に響くその言葉は、いつかどこかで聞いた言葉。
朝の光に満ちる、見慣れた景色。けれどどこか、それは徹夜明けの外の景色のようにちらちらと強い光に揺らいで、現実味なく視界どころか身体中を押し包んでいて。
―――重いような身体中に残るのは、纏い付く水の残滓。
そんな中、ぼんやりと瞳に映り込む鮮やかな黒と、曖昧に鼓膜を揺らす低く綺麗な声だけが、とてもとても、現実めい、て。
いた。
「ねえ、ヒバリさん…」
曖昧な意識のまま、ゆらゆらと定まらない声で綱吉は呟く。
呟くように、語りかける。
「…オレ、きっと、怖かったんです…」
あまりにも似ていて。
あまりにも、あなた達は似ていて。
幼い憧憬。
弱者ゆえの英雄崇拝。
盲目な絶対主義。
それを正確に名付ける言葉など綱吉の内どころか世界中探したってないのかもしれないけれど、それでも綱吉が描き続けていた理想の一端は、正しくそこにあったのだ。
雲雀や骸。
その強さに、在り方に、どうしようもなく惹かれた。
それは力だけでなく、その意志信念頭脳矜持孤高であるその姿さえ、含めて。
それはどうしようもなく綱吉が、持ち得なかったものだから。
―――だから、恐かったのだ。
「…だって、失うのはイヤです…。本当に、怖い…」
その強さは、ただ生きるための強さじゃない。
自分を通すための、強さ。世界を曲げて、或いは壊してでも、立ち続けるための力。
それは目を奪われるほどに綺麗だけれど、同時にひどく、危うい。
だって裏を返すなら、それは、世界に屈するくらいならきっと彼らは自分であることを通す。
最後まで、自分であることをしか自身に許さない。
許せない。
―――その方法が、死、であっても。
「―――…でも君が、僕を引きずり戻したんだよ」
その手でさ、と。
低い響きが、ふと耳に届く。
静かに。それはまるで、知らない夢の続きのよう、に。
ぼんやりと脳裡に蘇るのは、黒の部屋と饐(す)えた臭い。
畳の上、力なく倒れた子ども。
「…あれは、だって…。雲雀さん、手を振り払う力もなかった…」
「ま、否定はしないけどね」
夢というには明確に返される答え。
でも現実というには、あまりに世界が自分から遠くて。
「…それ、に」
「それに、骸は。多分、自分のことが嫌い、で」
―――それは何より、雲雀との相違で。
「それは狡い、と思うけれど、やっぱり怖くて、それで」
「それは」
「すごく、かなしいのに、」
―――知ろうともしない、から。
「…オレは、悔しいんです」
切ない、でも、辛い、でもなく。
まして、かなしいでも、なく。
悔しい、という言葉を選び取った意味を、きっと少年は気付かないまま。
* * *
「ちょっと、いい加減に起きなよ」
これ以上、君の寝言に付き合ってられるほどこっちは暇じゃないんだ。
唐突に、まるで流し込まれたかのように耳に飛び込んできた言葉。現実をそのまま体現するように鮮やかに明瞭なその強い声音に、突然に綱吉は覚醒の心地。
―――その、いつかどこかで、それこそついさっきにでも聞いたような言葉に感じる強い既視感に、ひどく混乱する。
寝ていた、感覚はないのに。
確実に現実とは隔たっていたと感じる脳が、ひどく奇妙。
「………あれ?」
思わず漏らした間抜け声に、あれ?じゃないよと、ひどく不機嫌な声。その声にやけにままならない身体をのろのろと起こし、上げた視線に雲雀を捉える。
「ヒバリ、さん…?あれ、いま何時ですか?」
「日本時間で九時半ってところかな。よく寝てたね」
「…えええええと、お見苦しいところをお見せしまして?」
返された雲雀の声の、その語尾に混じる皮肉めいた厭味めいた響きに、慌てて綱吉がそう続ければ、
「別に責めてるわけじゃないよ」
相変わらずどこか不機嫌な声が、けれど裏腹な言葉。
なんだろう?と思いながら首を傾げるが、ずっと寝ていたらしい綱吉には、当然のように思い当たる節すらもない。
ただ、不機嫌とは言え、その気配に攻撃的な色はないことが唯一の救いだろう。こんな場所でなくとも雲雀との戦闘など全力で遠慮したいのに、この狭さでは逃げ場すらない。
「あー…えっと。……あと、どのくらい……?」
「さあ?結構迂回したりしてるからね…まだあと、十時間近くかかるんじゃないの?お腹空いたなら、そっちにパンとか惣菜くらいはあるけど」
「あー…いえ、大丈夫です。動いてないからそんなにお腹空いてないし…」
「そう?じゃあ、何?言いたいことがあるなら言えば?」
ちゃんと君の、言葉で。
ちらりと、ほんのわずかだけ流された漆黒の双眸。
その鋭さ故でなく、あっさりと看過された己の内を暴く言葉に、綱吉は息を呑む。確かに散々、赤ん坊の家庭教師は綱吉を分かりやすすぎると扱き下ろしてくれていたが。
「……あの、」
「だからなに。さっさとしないと咬み殺すよ」
まだるこしいのは、嫌いだ。
そんな、どこまでも彼らしい物言いにひどく安堵する自分をおかしく思いながら、綱吉はようやく力の抜けた心地の身体で、雲雀に向き合って。
「オレに、貸しを作る気はありませんか?」
どうして、そんな言葉が出たのだろうか。
分からないまま。
おもむろにそう、綱吉は切り出した。
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