棺は捨ててしまった
狭い狭いキャビンの中。
辛うじて座席が確保されているだけのその片隅で、畳んだ両膝を抱え込んで小さな身体を更に小さくしながら、髑髏はひっそりと座り込んでいた。猥雑な機内は人でひしめき合っていて、様々な国の言葉が小声で、けれど重なり合うせいで結構な大きさで響き渡る。
毛布ごと抱え込んだ膝の頭に頬を寄せて、横向けた顔でぼんやりと周囲を眺める。
機内にいるのは三分のに程度が髑髏らと同じようなアジア系の肌と顔立ちをしていて、残りの三分の一が白人やラテン系の顔立ち。男性が多いが、女性の姿もそれなりに見られ、髑髏自身がそれほど目立つことはない。所々、家族連れらしく幼い子供の姿さえ見える。(髑髏たち自身も世間的、日本社会的に見れば十分子供の範疇であったが、この場では若い方、とカテゴライズされこそすれ子供という括りには入れられないだろう)
焦点を近くに向ければ、申し訳程度に背凭れのある長椅子状の、何とか三人が肩を並べられるほどの椅子に並んで座っている、犬と千種。一番通路側から犬、千種、そして窓際に髑髏が並ぶ格好だ。
すぐ隣の千種は持ち込んだモバイルの画面にかかりきりだし、更にその隣に座る犬は仰のいたまま目を閉じてふて寝の様相。どうやら自身の肉体を使われたせいで、直接骸に会って言葉を交わせなかったのが不満らしい。
そんなの、髑髏にとってみれば出会った始めからそうなのに。
「―――気分、悪いのか?」
唐突に。
視線一つ向けられることなくかけられた言葉に、髑髏は片方だけの左眼をぱちりと見開く。
抑揚がなくて低く、少し聞き取りにくい声。
「…ううん、大丈夫」
ちらちらと変わる画面の光と色と休みなくキーボード上を動く細長く骨張った指をぼんやりと見つめながら、簡単にそれだけ答える。
本当はそれほど、『大丈夫』ではなかったけれど。
それでもそれは今に始まったことではないし、何より自分には今、目前に、やることがある。
「なら、いいけど。どうせアメリカまではまだ時間あるし、休んでおいた方がいい」
「うん…。千種は?」
「イタリアでの鉄道の手配とか、向こうでの武器調達の手筈とか…やることがあるから」
「…そう」
千種に言われれば、結局髑髏は食い下がるでもなく頷く。
乗ったばかりの飛行機は、まだ日本を離れたばかり。東回りのアメリカ経由にしたのは、第一にそれが一番早く出航予定であったことと、そしてできるだけ時間を短縮したかったため。
十月三日の内にどうしても、イタリアに入る必要があったから。
目覚めた―――目覚めさせられた、髑髏。
訪ね来た、アルコバレーノ。
黒衣の死神の口から伝えられた現状と今後の処置、裏に潜められた意図。
それに乗ることに千種や犬はひどく不満げだったが、もうそれに乗るしか動きようがないのも事実で。
それでも食い下がろうとした千種たちに向けられた、赤子の瞳。
『意気がんなよ、どんなに腕が立とうが場数踏んでようがオレらから見ればテメーらはガキだ。骸がいるならともかく、今の状態で勝機どころか一瞬も、出し抜くことすらできると思うなよ』
冷えた声で告げた赤子。
そう言いながらも、出し抜く隙が作られていた理由は未だ知れないけれど。(恐らくそれは、出し抜く隙ではなく誘導された道筋だったのかもしれないけれど)
ただその空気に、気圧された。
初めてあの小さな存在を、畏怖した。
呪われた赤子の異名の正確な意味など知りはしないけれど、それは六道の冥界を巡り、その記憶と能力を保持する彼女の主とどこかしら似た空気。
他者と―――或いは人間という存在と、一線を画した。
「ねえ、千種」
膝の上に頬を押し付けたままで。ぼんやりとした眼差しを何となく千種の方へと向けながら、囁くように髑髏の声。
その声を聞いているのかいないのか。或いはそもそも、聞こえているのか。ちらちらと明減しながらその手元を彩る光と、その光に複雑な陰影を揺らめかせながら動き続ける細長い指先。
だから髑髏も、相手に聞かせるために言葉を飾る必要もなく、零れるままに心を吐露する。
「どうして骸様は、私達だけじゃ駄目なのかしら…」
どうして私は、骸様だけじゃ、なくなったのかしら。
言葉の後半は、気を失うように眠り込んだ寝息に半ば紛れ。
忙しなく動き回っていた千種の指先が驚いたように止まったことを、髑髏は知らない。
「―――そいつ、眠ったびょん?」
ぼそぼそと、隣に座る千種にすら届いているのか怪しい声量で紡がれていた言葉が途切れるように寝息に紛れて、すぐ。犬は伏せていた瞼を上げて、跨ぐように千種の上に身を乗り出して一番奥に丸く収まっている小さな顔を覗き込む。
零れる黒髪の隙間から覗く白い顔は、いっそ紙のよう。つやがなく、ぞっとするほどの白。
「―――コイツ、どーなってんだびょん?」
オカシすぎ、と。
大丈夫なのか、なんて素直に口に出せない青年の、けれど感じ取れてしまう少女の異変に対して掛け得る、それは精一杯の気遣い。
その言葉に、千種は眼鏡の奥で一瞬、その切れ長の瞳を子供のように彷徨わせて。
「柿ピー」
少しだけ強く、どこか舌足らずな低い声が呼ぶ。
悪夢のような幼い頃から、ずっと聞いてきた声。その、呼び名。
「―――分からない、けど。骸様はすごく、気にかけてた」
「ふーん」
骸が気にかける。
その行動の持つ意味を、汲み取れぬほど犬は愚かでも察しが悪くも、ない。
髑髏を生かしているのは骸で。
つまりそれは、髑髏の肉体は骸に形作られており、骸の支配下にあるということ。
なければならないはず、ということ。
「顔色悪りーし、ここんとこしょっちゅう倒れてるびょん」
「…でも病気、なら、骸様がとっくに手を打ってるはずだ」
「んなこと分かってるっつーの!」
噛み付くように喰ってかかってくる犬をため息でいなしながら、千種も髑髏の顔に視線をやる。
色が白いのは元からであったが、その寝顔にはほとんど血の気が窺えず。肉体の線の細さがさして変わったとも思えないのに、その気配―――生気とも言えるようなものが、以前にも増して希薄。今はゆるく寝息を零す唇も、赤みなく紫を通りこして白けてすら、いて。
―――どうして骸様は、私達だけじゃ駄目なのかしら。
脳裡に蘇るのは、吐息のような囁き。
「…そんなの、最初からだ」
ぽつりと。
内に熱く憤りを滾(たぎ)らせた、静かすぎる呟き。
訝しげに見返してくる犬の茶色の双眸にも気付かぬふりで、言葉を続ける。
「最初から、だ。骸様が俺達を必要としていないこと、なんて」
それこそ出会った初めから。
『有用』にはなりえても、彼の人にとって、千種達は『必要』なものではない。
後から出会ったのに『必要』とされた少女のその言葉は、千種の耳には傲慢にしか響かない。
「柿ピー」
「…そんなこと、ずっと知ってた…けど」
千種達にとって骸がいかに絶対でも、骸にとってはそうではなくて。それでもどうしようもなく、千種達の世界は骸が絶対で。
骸がいなければならなくて。
骸だけ、とすら言えて。
今思えば、それでもそこに不満も不安もなかったのは、誰も何も骸には必要なくて、骸がどこまでも独りであったからだ。
それはクロームが介在してでさえ。
―――変化はいつからあったのだろう。
遡れば、それはきっと、初めて次期ボンゴレと見(まみ)えた頃まで戻るのかもしれないけれど。
けれど千種は気付かなかった―――気付けなかった。
初めて気付いたのは、一年前。
あの、夢幻のように現実味の失せた、夏祭りの日。
骸がいて、そして綱吉がいた、あの夏の一夜。
骸が次期ボンゴレ―――綱吉に特別優しかったわけでもない。
傍に寄り添っていたわけでもない。
それでもあの日。
何故か、なんて分からないけれど。
骸は綱吉を誘ったのだ。
そして骸は、独りではなかった。
ゆるやかにゆるやかに。
本人すら気付かぬままに傾いていたものが、あの日一気に。
それはまるで、崩壊するように。
骸自身、気付いていたのかは分からないけれど。確かに何かの均衡が壊れたのは、あの日。
そこにあるのは嫉妬なんて可愛げのあるものではなくて。
世界を失う、恐怖だ。
カタン、と。
千種の動揺を表すように、震えた細い指先が一度強く、キーを鳴らす。
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