どこから間違えてしまったんだろうね
夢を、見ていた。
みんなに話したこと、リボーンに話したこと。
リボーンの言葉、ザンザスの台詞。
目まぐるしく自分を通り過ぎていったたくさんの現実離れした人や出来事。
何よりその筆頭で、契機(きっかけ)の―――黒衣の赤子との、出会い。
夢の中で過去を辿る。
どれもが痛いほどに鮮明なのに、全てが薄い膜一枚隔てたみたいに妙に、自分から遠い。何だかひどく、他人事めいて。
―――あの頃から自分は、何か変わったのだろうか?
何も、選べていない頃から、自分は少しでも、変わったのだろうか。
分からない。
分かるのは、身勝手な想いと祈りになり損なった願いに、ただ周囲を巻き込もうとしていること。
大切なはずの人達を巻き込んで。
たくさんの矛盾を孕んだまま、それでも変わることなく胸の内にあり続ける想いが、いっそ涙が出そうなほどに、滑稽。
結局誰一人にすら、本当のことを語らないまま。(もしかしたら、聡い家庭教師や先輩、辺りは勘付いているかもしれないけれど)
リボーンと山本と、それから、骸、くらいか。
濁しながらも核心に近い部分を告げられたのは。
指を折って思い浮かべた相手の顔に我ながら分かり易いと呆れる。
リボーンと山本と骸。
取り合わせてみればおかしなことこの上ないが、綱吉にとってこの三人は特殊なのだ。
特別、と言い換えてもいい。
―――彼らはある意味、綱吉にとっては変化そのもの、だったから。
(どうして、)
(どうして、彼ら、だったんだろう)
思い巡らせても、確たる答えなど浮かぶことなく。
「っ!?」
ごぽり、と。
吐き出す息が泡となって視界を過り。
ごお、と低い耳鳴りが、体を満たす。
―――水。
息、が。
泳げない、と、思った瞬間。
突然に強い力で腕を引く何かに、無我夢中でしがみつく。
暴れる。
もがく、というより暴れるように『何か』にしがみ付く。しがみ付いたそれに更に縋ろうとすれば、何故か慌てたように引き離す力がかかって。
溺れる、と。
思って、更に必死にしがみ付こうともがく。
水の中。
深いのか、暴れても水音一つなくて。
息が、切れる。
恐慌状態で暴れていると、聞こえるはずもない音が、何故か聞こえて。
それは、舌打ち、のような。
そして。
引き離しにかかっていた力が、再び引き寄せてきて。
ごお、と耳鳴り。
驚いて、開いてしまった口から一つ、大きな泡が零れて。
「…っ!?」
空気。
突如与えられた水以外の冷たさと感触に、恐慌状態だった綱吉は暴れる手を一瞬で止める。
唇を覆うような、冷えたやわいような感触。
流れ込んでくる、濡れた熱と紛れもない空気。
与えられたそれに、綱吉は逃すまいと貪りつく。
手指に触れる『何か』も、逃さぬように爪立てるようにしがみついて。
貪る。
温もりと空気。
そのうち、大人しくなった口内で、一度何かぬるりとざらつくものが綱吉の舌の根を押え付けているのに気付き。何だろう、と首を傾げる間に、熱を持ったそれは一度ざらりと綱吉の舌の表を這いずり絡めて、口内から出ていく。
そして、
「正気に戻りましたか?ボンゴレ」
水の中。
聞こえるはずのない艶帯びた美声が、耳に届く。
「…え?」
驚きのあまり、声が零れて。
零れた声が音になったことに更に驚いて、思わず手を喉元まで持ち上げて。
「―――あれ?」
その段になって、ようやく奇怪(おか)しなことに、気付く。
息、が。
「息、できるでしょう」
聞こえるはずのない声が、もう一度。
驚いて、落とした視線を上げた、目の前。
鼻先が触れ合いそうなほど、間近。
「全く…。泳げないのかは知りませんが、夢の中で溺れるなんて馬鹿なんじゃないですか、君」
目の前にちらつく、群青と深紅の、コントラスト。
棘を含んで響く声は、それでもどこかしら甘くて艶やか。
「むく、ろ…?」
思わず口を衝いた名に。
すぐ間近の藍色の瞳が驚愕に大きく、見開かれた。
自分の名を呼んだまま固まったようにただ見つめてくる相手に、驚きが去った後、骸は、意外、と内心で呟く。
実際、綱吉にかけたマインドコントロールの精度など、大したものではない。それこそ、ごく普通の人間でも、幾日かを過ごせば自然解けてしまうだろうほどに。
加えて相手は綱吉だ。ボンゴレの超直感の特性は人によって差はあるが、綱吉の危機回避能力と相手の心の機微に対するそれは、歴代の中でも群を抜いているだろう。
それゆえに、骸はマインドコントロールに関してほとんど期待していなかったのだ。
かかったことが、いっそ誤算だったと言ってもいい。
―――それでも、かかったというのなら、それは綱吉の望みだったのだろうと思うだけ、だったが。
けれど、だからこそ、意外。
望んで骸を忘れたはずの綱吉は、ひどく当たり前のように骸の姿を認識し、その名を呼んでみせることが。
そして今、『骸を忘れる』という、骸の存在を望まないともとれる行動をとりながら、思惟を引き寄せる骸の力に対しては、ひどく呆気なく自らの支配を許してみせていること、が。
夢を媒介に引き寄せ重ねようとした綱吉の思惟は、ぞっとするほど抵抗なく骸の思考に感応して。
水の幻影。
夢に、溺れる。
それらは全て、骸に繋がる、もの。
それらに一切、綱吉は抗う素振りすら見せなかったのだ。
それは確かに、今日が初めてではなく、出会った頃から存在した面ではあったけれど。
舌打ちしたいような、もういっそ笑い出してしまいたいような、限りなく投げやりな気持ちで骸は唇を歪める。
ここまで、とはさすがに予想外。
―――ここまで、彼の中で自分が許されている、なんて。
「憶えているのですか?」
く、と。
唇が、ひどく艶やかで、それでいて皮肉な笑みを刻む。
多分意味は通じないだろうと思いながら、それでも問うた言葉はやはり理解されなかったらしく。
「え、なに?…てかここどこ…?」
合わない視線が不安げに彷徨う。揺れる飴色の瞳が、答えを求めるように困惑に満ちて。
久々に見るその怯えを含んだ表情に、骸は少し愉快になって唇を吊り上げ小首を傾げ、しなを作るようにして微笑んで見せ。
「夢の世界へようこそ、ボンゴレ!」
軽く両手を広げて満面で笑ってみせてやれば。
混乱と困惑と恐怖と怯儒とほんの少し可哀想なものを見る目をして顔中どころか全身を引き攣らせるものだから。骸はその後、綱吉の目が本気で哀れむように冷えるまで盛大に笑い転げた。
ひどく久しぶりに、何かが動いた気が、した。
「―――…まぁ、深層心理、とでも言えばいいんでしょうかねぇ。僕も専門家じゃないので分かりませんが、だから簡単に言うと夢の中、で間違いはないんですよ」
水の中。
立ちっ放しもなんですしどうぞ?と優雅な風に勧められた綱吉は、言って何もない水の中に腰を下ろした骸の隣に恐る恐ると座り込む。
片膝を立てて片胡坐をかくようにして座っていた骸が少し驚いたように綱吉を見つめてきたが、なに?と訊ねても、いえ別に、としか返ってこなかったのでそのまま両膝を立てた体育座りで、膝に顎を置いてその声を聞く。
綺麗なのに、特徴的な声。
すぐに骸の声だ、と分かってしまうような。
「じゃあ、今、オレが見てる夢ってこと?」
壊れたように大爆笑していた人間とはとても同じとは思えない静かな声で語られる話に、首を傾げながら確認すれば、
「少し、違うんですけどね」
含みをもたせながらも、一応肯定されたらしい。だからあまり深くは突っ込まず、ふぅん、と頷き返しながら、幾度か目を瞬かせる。
少し、眠い。
夢の中だというのに、おかしな話だ。
左側から、どうしましたか?なんて、優しげな言葉。
「ううん、何でもない。―――…ねぇ、骸。凪が、寂しがってたよ。彼女だけじゃなくて、きっと犬さんも、千種さんも。オレなんかの所に来るより、彼らに会ってあげなよ」
眠いな、と。
思いながら蕩けた思考で、つい最近家に会いに来ていた少女を思う。
真っ直ぐな瞳で話がしたいと見つめてきた少女。
その黒々と潤んだ、真夜中の湖のような瞳に映っていたのはきっと、自分であって自分でない。
綱吉に重ねて、或いは綱吉の向こうに見ていたのは、きっと。
「どうして僕が、わざわざ?」
訊ね返された骸の台詞は、認めたくはないけれど思う通りで。
けれど。
胸の奥に湧き上がるのは、怒りや憤りより、むしろ。
「―――…なんで骸は、そんなに人間が嫌いなの」
唇から。
するりと滑り落ちて空気に触れた言葉。
「はぁ?」
突然の綱吉の台詞に意表をつかれて声を上げてしまった骸だが、眠気で呂律すら怪しい綱吉の耳には届かなくて。
言ってから綱吉は、ああ、と妙に納得した。
違う。
言ってから、気付く。
正しくて違っていた、己の台詞。
「何で、とは?」
何故そんなことを問うのか。
何故人間を好かねばならないのか。
続く言葉なく相手に任せ、面白がるように問い返す、骸の皮肉も綱吉には届かない。
だって。
だってそんなのは、狡い。
思う気持ちは、するりと喉から唇へと滑り落ち。
「骸、は。狡いよ。ちゃんとお前の周りには人がいるじゃん。お前も、そんなに強いのに。何でも、できるのに…っ」
分かってしまった。
―――分かれて、しまった。
それはとても、よく知る感情。
弱い自分がよく知る感情。
骸が嫌いなのは『人間』じゃない。
『人間』じゃ、なくて。
「どうしてそんなに自分が嫌い?」
強い、クセに。
そんなのは、狡い。
「ボンゴレ?」
言うだけ言って倒れ込んできた綱吉を思わずといった風に両腕で支えたまま、骸は光の失せたオッド・アイで白い顔を見下ろす。
夢の中。
自らの領域にまで引きずり込み、『綱吉』を眠りの淵に引き込んだのは紛れもなく骸自身。
それをこそ望んで、夢を媒介に引き寄せたはずなのに。
―――そもそも、言葉を交わす必要など、微塵もなかったはずだという、のに。
さら、と。
青味がかった艶を持つ黒髪が額から零れて流れる。
零れた髪の間から見下ろす群青と深紅は、途方に暮れた、迷子のよう。
「―――…つなよし、くん?」
呼びかけにも、当然のように返る答えはない。
超直感―――見透かす力。
決して間違うことのない少年が導き出した答えは、骸にとって毒でしか、ない。
―――自分が、嫌い?
「……だとしても、僕は」
間違っていても、この道をしか、選べない。
―――選ばない。
* * *
見下ろす肌蹴た首筋に、赤黒い、傷跡。
呑気に寝息を立てている姿だけを見れば何かに引っかけたかとでも思うが(何せ未だにダメツナの名を返上できていないドジっぷりをいかんなく発揮している。思えば、自分の生徒はそんなのばかりだ)、それは紛れもなく、間違いようもなく。
揺らぐ気配は、よく知る異質。
「―――骸、出てこい。気付いてんだろ?」
硬質な高い声が、前触れもなく空気を震わせれば。
「ああ…君は、読心術が使えるのでしたっけ」
アルコバレーノ、と。
綱吉の声で、姿で、決して彼の呼び得ぬ名を呼ばれる。
それはひどい、違和感。
起きる気配もなかった白の瞼がゆるりと開いて双眸が顕わになり。
明るい真昼の陽光の下、深紅に禍々しく左眼の裡を彩られて、沢田綱吉ではありえない優雅めいた所作で起き上がった骸は、幼い顔でうっそりと微笑んだ。
「取引しませんか?アルコバレーノ」
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