願望充足型の悪夢



「行ってきまぁす」
「はい、行ってらっしゃい。凪ちゃんも、行ってらっしゃい。またぜひ来て頂戴ね」
「――…いってきます…」
 玄関先。
 開けたドアの向こうとこちら、外と内との境界線で交わされる会話は差し込む明るい陽光に白く照らされて、空々しいまでに平凡な日常。
 まるで白昼夢のように頼りない。
 優しい笑顔で玄関の上がり框まで見送りに出た母親が優しい決まり文句で、もう随分と大きい『子供』を送り出す。そして、笑顔ではない、けれどひどく安心しきったような、どこで見るより無防備な少年の顔がそれに応じる。
 ―――自分も、同じ表情(カオ)をしているの、だろうか?



 ざり、ざり、と。
 乾いたアスファルトの上、靴底と細かな砂利の擦れ合う、リズミカルなような耳障りなような足音が、二人分。時に重なり時にずれながら、ややゆっくりとした速さでその音は続いていく。無言のままの二人の間に、その音はやけに大きいけれど、それはどこか落ち着くものでもあったから。
 乾ききった砂利の音だけをさせて、綱吉と凪―――否、髑髏は、歩く。
 通学には、少しばかり早い時間。数人のスーツ姿のサラリーマンと玄関先を掃く女性、それから犬を連れた年配の夫婦と擦れ違った他に、朝の住宅街の道に人けはない。響くのは、高く賑やかな小鳥のさえずりと、遠く低く、微かに響く車の音くらい。
 平坦で、平凡で。
 ありきたりな日常の一コマを厳選して選り抜いたかのような今の状況は『髑髏』にとっても『凪』にとっても体験したことのないもので。
 おままごとのような。
 或いは、ごっこ遊びのような。
 それはまるで、性質の悪い悪夢のよう。
 朝の陽光に、目が眩む。
「…ボ、ス?」
 眩んだ視界に、見失ってしまった相手の名を思わず、呼ぶ。
 そうすれば、半歩分だけ前を歩く背中が、肩越しにほんの少し首を傾がせるように捻って振り返り。
「凪?」
 髑髏を見つめる、振り返って覗き込んでくれる、その、瞳の飴色。
 それは以前と何も、何一つ変わらない。
 否、その瞳の真っ直ぐさは、ただひたすら髑髏だけを映す真っ直ぐさは、むしろ以前よりも純粋なほどで。『髑髏』を映すのに介在していた人の影が、『凪』を映す綱吉の瞳にはほんの欠片ほどもないから。
 それが、ひどく哀しくて、ひどく、嬉しい。
 ―――嬉しい、と。
 思ってしまう心が、ある。
「…なんでも、ない」
 胸の前で抱え込んだ鞄をよすがのようにきつく抱きしめ、絞り出すように何とかそれだけを返せば、そう?と釈然としないような顔をしながらも止めていた足を再び動かし始める。
 ゆっくりとした歩調。
 その足音を聞きながら、髑髏はふと思いついて自分の足音を殺す。
それは、幼い子供のようなとりとめのない思い付き。
 一つだけになった足音に懸命に耳を傾け、心の中で拍子をとる。ゆっくりと、でも少しだけ髑髏よりは広い歩幅。歩き慣れた通学路を進む足取りには迷いなく、そのリズムは均一に近い。
 ざり、ざり、と。
 一定に響く砂利の擦れる音を胸で刻みながら、髑髏はゆっくりと、わざと音を重ねるように自分の歩調を合わせていく。
 自然を装いながら、けれどそれは確実に。
 それは小さな子供が、母親や、大人の真似をしたがるように。
 絡み重なりいく音に、髑髏の胸に湧くのは理由の知れない小さな昂揚。重ねた足音は少しだけ煩く朝の空気に響くけれど、それすらどこか、楽しくて。
 ただそれは、まるで終焉までのカウントダウンのよう、と。奇妙に浮き立つ心とは裏腹の思考が、ふと影のように射す。
 それを頭の中から追い出すように、一心に動く足元を見つめて、けれど。
 ふと、気付く。
 少しだけ遠い、靴の踵。
 開いた、距離。
 それは、当たり前といえば当たり前で、同じ速さで足を動かしていれば当然に、小なりとも歩幅の大きい綱吉の方が距離を稼げるに決まっている。
 逡巡は、刹那。
 重なっていた足音が乱れ、髑髏は少しだけ足を速める。
 戻る、距離。
 けれど一度ずれた足音は簡単には重ね直せなくて、それだけが少し寂しくて、哀しい。
 と。
「…?」
 髑髏は、首を傾げて隻眼を上向ける。
 目に入るのは、相変わらず少しだけ前を歩く綱吉の背中と後ろ首。振り返った風ではないから、それが無意識なのか意図的になのかは分からないけれど。
 ―――その歩調がほんの少し、緩まって。
 けれど、それに喜べばいいのかどうかすら、今の髑髏には分からない。(だって彼の人、ならばきっと彼の足を止めることなんて、ない、のに)
 重なり連なる音が、続いていくことを望んでいるのか、それともいっそ、一思いに止まって終わって壊れてしまうことを望んでいるのか。
 終焉の在り処を知ってしまっている者にとって、きっと虚構の楽園以上の悪夢なんて、拷問なんて、ありはしない。
 ざり、ざり、と。
 足音は続く。
 楽園の悪夢は続いていく。
 ―――彼の人だけがいない、楽園が。(これは誰にとっての楽園、なのか)
 重ならない足音は、やがて止まって。
「じゃあ、行ってくるね」
 振り向いた飴色が、少し困ったように名前を呼ぶ。
 凪=Aと。
「…うん、行ってらっしゃい」
「……ちゃんと、学校に行きなよ?」
 向けられた声に瞳に、諦めの気配。見下ろしてくる面、額にかかる色の淡い前髪越しに困ったように寄せられた細い眉を見つけてはいたけれど。
 ほんの少し。傾げた顔で、ほんの小さく微笑んで。
 少女は答えることはない。
 それに小さくため息を吐いて、それでも気懸かりげに校舎の方へと去っていく薄いような背中をじっと見送り。
 呼ばれ続ける死んでしまった少女の名前。
 映す飴色に過(よぎ)ることない、髑髏以外の影。
 一度も紡がれない、彼の人の名。
 ―――楽園の悪夢は、今日もまだ、終わらないらしい。
 思いながら、髑髏は気配を消して、ほんの少しだけ力を使って姿を隠し、綱吉の高校の正門、その門柱を背にしてしゃがみ込む。
 目を伏せる。
 頭の芯がぼうと痺れ、少しだけ遠退く意識。
 疲れているつもりも、思い当たる原因もないというのに、ここ最近はずっとこうだ。特に、あの時。髑髏を 凪 と、初めて呼んだ綱吉の前で倒れてしまった時、から。
 また骸が、夜にでも髑髏の肉体を使っているのだろうか?
 あの時の千種の言葉を思い出して考えてみるけれど、確かめる術はないし、何よりそれはどこか、しっくりとこない。
 どちらかといえば今、髑髏と骸の間にある距離は今までになく限りなく遠い気が、する。
 遠い、というか。
 わざと遠ざけられている、ような。
 思いの交感すら、ままならない。
 それは普通なら当たり前のはずなのに、髑髏にはひどく心許ない、感覚。
 世界の中に一人、放り出されたような心地の髑髏の耳を素通りしていく、高い声、低い声、虫の羽音のような様々の声の重なり合い。伏せて閉ざした瞳の奥に広がるのは、陽光を透かしてわずかに明(アカ)い、ただの闇。
 空と風と緑と水と、微かに流れるあまい花の香。そんなものだけで満たされた、あの穏やかなばかりの夢の風景はあまりに遠く、気配すら掴めなくて。
「…むくろさま…」
 会いたいと、思う。
 今、無性に。
 押し寄せる、『自分』が『自分』でなくなりそうな感覚は、骸と繋がっていられた時には終ぞ感じたことのなかったもの。
 けれど、呟きに答える声は、気配すらなく。
『どなた、ですか……?』
 代わりに融けはじめた意識に響くのは、聞いた憶えのないよく知る声。


* * *


『どなた、ですか……?』
 唐突に意識に割り入ってきた声に、ぴくりと白の瞼を震わせた骸はおもむろに開くことの叶う左の眼だけを開く。
 薄闇の夕空を幾重も重ねたようなその色は、暗く沈む水の中でより一層陰鬱に淀んで。
 耳の裡に蘇る。告げられた言葉は、最後に聞いた声。
 脳裏にこびりついて離れない。
 けれども、これは。
 これは自分の、―――六道骸の思考ではない。
「厄介な―――…」
 まだ時間はあるはずなのに、これでは計算が合わない。
 早過ぎる。
 思う、以上に。
 ―――或いは彼女が、望んだ、か。

「――…なぎ、」

 呼ぶ名は、届かない。

 ―――もう、一つ。 
 呼べぬ名も、また。

 当然に。



* * *


「ちょっと。うちの風紀を乱さないでくれる?」
 君の居場所はここじゃないだろ。
 言葉と共に、落ちる影。
 相変わらず、目の前に佇んでいるはずというのにその気配は奇麗にないけれど、代わりのようにどこか張り詰めた弓弦(ゆづる)にも似た厳しい空気が辺りに満ちる。
 肌で感じる空気の変化に、髑髏の大きな隻眼がゆるりと上向き。
「…鳥、の人…」
 呼ぶべき名を思い出せず、覚えず咄嗟に口を衝いたのは骸や犬がいつか彼を指して呼んでいた単語。当然、対する相手のお気には召さなかったらしく、その鋭い切れ長の瞳に一瞬物騒な光を閃かせ。
「…いい度胸だね。誰の入れ知恵だい?」
「骸様、が」
 口にした名に全く他意はなかったが、答えてから彼に主の名を出してしまって大丈夫だったのかと少し、悩む。
 自分はまだ、骸の計画を何も知らない―――否、そんなものは知らなくて構わない。ただ骸が、髑髏に今、何を望み、何を望んでいないのか、を―――知らないのだ。
 綱吉辺りが聞けば問題はそこじゃないと突っ込みそうなことを思ってから、ふと蘇る耳の奥に残っていた青年の言葉にほんのわずか、眉間を寄せる。
 不快ではなく、それは、困惑。
「……ボスを、待ってるだけ。風紀なんて乱してない」
「ウチの生徒でもないのに、そんな所で座り込まれると迷惑なんだよ」
 ワンテンポ、どころでなく遅れた髑髏の答え。
 けれどそんなことを気にかけた風もなく髑髏の返答に鼻を鳴らした雲雀は、あっさりとその言葉を切って捨てる。
 その相手の様子に、その場を動く気のない髑髏はしゃがみ込んだまま上目に相手を見上げて。その黒の隻眼に映されるのは、ほんのわずか、恨みがましいような色。
「…もう、あなたの学校じゃないじゃない」
 卒業したって、聞いた。
 言って、小さく唇を突き出すようにする少女に、
「並盛は僕の町なんだよ」
 勿論ここも、例外じゃない。
 あっさりと、それが絶対の真理のように迷いなく雲雀は言い切る。
 それを見上げる髑髏の瞳が、不意に今までとは違う光を宿して。そしておもむろに、開かれる唇から零れる声はあまく、暗い。
「じゃああなたは、ここに残るの」
「イタリアへは、行かないの」
 蟠る想いをぶつけるように。そう問うた、髑髏に。
 吊り上がった雲雀の双眸が、何か見定めでもするかのようにすぅと細く、眇められ。
「君はどうなのさ」
「…え?」
「六道骸(アイツ)がいないのに、どうしてここにいるの」
「どうしてイタリアに行くんだい」

「役に立つとも思えないのに」

 かっ、と。
 幼いまろみの強い白い頬が、鮮やかに紅潮する。
 羞恥ではない、それは目の眩むほどの、怒り。
 憤り。
「っ、役に立つわ」
 まろい隻眼が、きつく青年を見据える。
 鮮やかな怒りに煌く黒の瞳は強いけれど、睨むというには少し、足りない。
 足りないものの在り処どころかそのものにすら気付いていないのだろう少女をつまらなそうに見返しながら、雲雀はその薄い唇を小さく歪める。
「誰が?」
 ほとんど間髪いれずに返された、その言葉に。瞠られていた髑髏の瞳が、途端、困惑にゆらと揺らぐ。
 そして、何か語ろうと開いた唇が、開いては閉じ、開いては閉じ、と幾度か繰り返して。
 繰り返すだけで、音はなく。
「…っ、」
 最後にはきつく、噛み締められる。
 きつく、色を失くし赤い血を滲ませそうなほどに噛み締められた唇を雲雀の無感動な瞳が眺めやり、そのままぽつりと、呟く。
「成程ね」
 コレも、原因の一つなのかな。
「え、」
 何、と。
 小さく首を傾げる髑髏に、けれど雲雀は答える気などないよう。
「馬鹿みたい」
「六道骸も結構、甘いね」
 鼻で笑うように告げられた台詞に、髑髏の短いスカートが勢いよく翻って。
 じゃっ、と。
 硬いブーツの靴底が地面を擦って五月蝿い音を立て、立ち上がった髑髏が雲雀に詰め寄るでもなく身構える。
「貴方になんか、分からない」
 骸様がどんな想いで、何を考えているか、なんて。
「分かるわけない、っ」
 悲痛な。
 分かってたまるものか、と。
 あまやかな高い声が悲痛に尖り、罅(ひび)割れる。
 それに。
「分かってないのは、君だと思うけどね」
 大きくまろやかな瞳で、きつく睨み据えてくる髑髏にそう返した雲雀に、少女の大きな瞳は更に大きく瞠られる。
 答えが返されることも予想外なら、その返ってきた内容も予想外も、いい所。
「分かりたくもないけど」
 雲と霧の違いなんて、精々その存在する位置くらいだ。


* * *


 満ち足りた悪夢。
 最高至福の絶望。

 折った膝を抱え込んで、力を込めて丸まって。
 胎児というには、強張った。
「骸、さま…」
 叫びは誰にも届かずに。
「…ボ、ス…っ」
 痛みは、肉の内を荒れ狂って。

 肉を苛む激しい痛みに、心の在り処をふと、迷う。


 これはだれのみているゆめ?





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