願望充足型の悪夢
ワオ、と。小さな呟きが静かな朝の空気に響く。それは、本人にすら思いがけない大きさ。
「どうした?ヒバリ」
沢田家の屋根の上。
二階建ての高さ、それも傾斜した足場の悪いそこに危なげもなく立っているのは痩身の青年と幼い赤子。その赤子が振り向いて、珍しいものを見たというように問うてくるのに、
「…いや。……珍しいものを見たと思ってね……」
「あ?」
赤子―――リボーンの思いをそのまま代弁したかのような青年の返答。それにますます怪訝に思いながら眺めていれば、雲雀はそんなリボーンの視線になど気付かぬげに、どこか呆然と瞠った切れ長の瞳で一点を凝視している。
そのある一点―――屋根の上から見下ろせる沢田家の玄関先を雲雀の視線を辿るようにリボーンも見やってみるが、目に映るのは見慣れた無機質の風景だけで。
「おい、ヒバ…」
「…君の生徒、女を誑(タラ)し込んでたよ」
あれは見事な手際だった。
「はぁ?」
胡乱な眼差しを向けるリボーンに、どうやらようやく衝撃から立ち直ったらしい青年が、今度はひどく面白げな笑みを唇に刷いて、屋根の下を眺め続ける。
そこにはもう、ただ朝の静寂が広がるばかりだけれど。
「それよりさ」
視線は下に向けたまま。
声だけがリボーンへ、向けられ。
「この茶番はいつまで続くの」
淡々と。笑みを刻んだ唇のまま、しかしその声は笑いの欠片も見えないほど不快げに、冷ややか。
それは問いかけに似た響きで、けれど。
「…さーな。ツナに聞け」
赤子の声がひどく嫌そうに返すのに、
「ふぅん?アイツじゃなくて、沢田綱吉に、なんだ?」
雲雀がまるで面白いことを聞いたかのように、リボーンの言葉を繰り返す。まるで揚げ足取りだ。
それにますます苦々しげに一度舌打ちしたリボーンが、指先で下ろした帽子の鍔陰にその視線を隠して。
「…分かってるクセに聞き直すもんじゃねーぞ」
「キミに聞いてみたかったんだよ」
それは、問いかけに似た試問と確認。
言って、くすり、と不可思議な笑みを浮かべる美貌の青年に、試されたのかと赤子がひどく不機嫌そうに鼻を鳴らす。しかし、すぐに気を取り直したのか、おもむろに赤子らしくない形に口の端を上げて、
「そーいえば俺も聞いてみたかったんだぞ、ヒバリ。テメーはどういうつもりなんだ?」
唐突に趣を変えた声。
それに一瞬だけ吊った漆黒の瞳を流してから、雲雀はどこか楽しげに小さく首を傾げる。
「何が、だい?赤ん坊」
「どうしてツナの護衛を引き受ける気になったんだ?」
それはひどく真面目な、暗い声。
その声に、
「言ったじゃない。―――あの子が面白そうだったから、だよ」
彼が僕を怖がらなくなったのはいつからなんだろうね?
ひどく可笑しげに、けれどその即答は明らかに嘯く調子。
その雲雀の台詞に、一時楽しげに笑んでいたリボーンの声に分かりやすいまでの険と苛立ちが宿り。
「そーいう意味じゃねーぞ。分かってんだろ。お前が、群れない≠チていう自分の掟を破るほどの義理は俺らにはねーはずだろ」
「誘ったのは君じゃない、赤ん坊」
それに僕は、群れに入ったつもりも、これから入るつもりも、一切ないよ。
言いながら、相変わらず雲雀の顔にはひどく可笑しげな笑み。彼にしては珍しいほどに、素直に上機嫌を顕わにした。
「ヒバリ」
「…夢をね、見たんだよ」
「は?」
あまりに唐突な言葉に赤子が首を傾げるのに、雲雀は笑みながらもう一度繰り返す。
「忘れてた頃の夢をね」
どちらにしろ、今更だしね。
それは、真意の知れない台詞と微笑。浮かべられるその笑みは、何かを楽しむような、懐かしむような、それとも何か、嘲るような。
「―――…答える気はねーってコトか」
言うだけ言って沈黙を突きつけてくる雲雀に、とうとう諦めたようにリボーンはため息を吐く。そんな赤子らしからぬ姿に小さく肩を竦めて見せながら、雲雀は苦笑し、
「これ以上なく真実(ホントウ)のことを言っているんだけどね。…でも、そうだね。君に話す必要がないとは思ってるかな。少なくとも―――今は」
「………」
「まぁ、気にしないでよ。これは多分に僕自身にとって、今更な話だって言うだけ。…それより、」
―――仕事(ビジネス)の話をしようか。
一変した低い響き。
どこか感傷にも似た色合いを帯びていた低い美声が、翻ったかのように無機質な、綺麗なばかりのテノールで続ける。
「飛ぶ準備は粗方できてる。席も取ったし、程よくリークもした。 ―――本当に、いいの?」
―――『今』で、いいの?
―――二人で、行かせるの?
言葉もなく続けられる問いは、訝しむというよりはあからさまに面倒だ、と告げていたけれど、リボーンは気づかぬふりで、に、と口の端を軽く上げて。
「ああ、バッチリだぞ。さすがだな」
「それはどうも。―――じゃあ、僕はそろそろ帰るよ」
超過労働もいいところだ、と。ふわりと一つ、小さく欠伸をして雲雀は後も見ずひらりと屋根から飛び降りる。
着地の音一つなく、軽やかに。
「…確かに、眠みーな」
それを屋根の上から見送って。傍から見れば普段を変わらない表情で、それでもその大きな瞳を眠気にほんのわずか虚ろがせながら幾度かしばたかせ、一階分下りた屋根から鍵の開けっ放しになっている部屋の窓を開ける。
ごく頻繁にリボーンや雲雀が、そして極々まれに六道骸などが窓を壊してまでも侵入を果たしてくると悟ってから、部屋の主である綱吉は年中通じて窓の鍵を下ろすことをやめてしまった。
それが、諦念なのか受容なのかはきっと本人すら把握してはいないだろうけれど。
「……ま、便利だからどーでもいいんだけどな」
綱吉が聞いたならば頭を抱えて突っ込みそうな身も蓋もないことを呟きながら、リボーンは窓枠を越え、自らのハンモックへと飛び乗る。着替えなければと思うが、夜通し動いたツケは小さな肉体には思う以上に大きい。
それもこれもどれも、あの馬鹿のせいだ。
舌打ちしたい心地で、半分眠り込みながら忠実な相棒の名を呼んで、
「…失くさねーで、持ってろ…」
レオン、と。
眠りに沈み込みながら続けて呼ばれた名と共に、主(あるじ)に忠実なカメレオンに渡されるのは一通の紙封筒だ。
―――別れ際、雲雀に寄越された依頼の品。
階下から朝餉の良い香りが漂ってくる中、顔の上に黒の帽子を引き下ろしたリボーンは擬似的な夜闇の中、呆気なく心地好い眠りに落ちた。
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