願望充足型の悪夢
音がする。高くてけたたましい、意識を毛羽立たせるような音。微睡みの心地にしがみつく意識を容赦なく引っ掻くような。
「…ん、…」
無意識のまま、音を避けるように毛布に潜り込む。身体全てを心地好いだけのぬくもりで包みこんで。
しかし、頬に触れる優しい感触と程好い温もりにとろりと落ちる目蓋とは裏腹に、眠りに沈んでいたはずの意識はどんどん冴えていく。
まだ早い時間に設定した、目覚まし時計。
朝を告げる母親の声も、叩き起こす赤ん坊や子供たちの声も気配もまだ、ない。
それでも意識は、もう透明に冴えつつある。
もぞ、と最後の悪足掻きのように一度、毛布の中で寝返りを打ってから、やがて綱吉は諦めたようにため息を吐いて、身体の上の毛布をどかして、起き上がる。
途端、薄手のパジャマ越しに押し寄せる冷えた空気。
十月に入ってからは、昼の陽気はともかく朝夕の冷え込みは秋を思わせるもので。そういえば、昨日も早くパジャマを厚手のものに代えるよう奈々が言っていたか。思い、今夜辺りに代えようと考えながら、日課に近い動作で部屋を見渡し、
「リボーン」
ぐるり。
飽きるほどに見慣れた部屋を見回すが、そこには散らかり気味の自分の部屋が広がるばかりで。最後に目をやった、部屋の片隅の小さなハンモックの上にも呼んだ捜し人の姿はない。
「…今日もいないのか…」
はあ、とため息を吐き出しながら綱吉はベッドから足を下ろす。
ここ最近、数年来ほぼ毎日寝食を共にしてきた赤子の家庭教師は全く家に寄り付かない。食事時にはふらりと戻ることもあるのだが、ほぼ毎日であったそれがここ数週間のうちは週に二、三回といった程度で。
何より夜、眠っている様子がないのだ。少なくとも、綱吉の部屋に戻っている気配は、ない。
「全く…何やってんだよアイツ…母さんだって心配してるのにさー…」
ぶちぶちと一人ごちりながら、裸足のままで部屋を歩く。
足裏に触れる冷えた床の温度がじわりと下から這い登ってきて、身体の内に凝っていた寝起きの熱と微睡みの残滓を吸い取っていく。
いくらかしゃんとした頭で、足を向けるのは、窓辺。
道路に面したそこからは、朝の清しい風と光が差し込んでくる。その窓を朝一番に開け放つのもここ数日綱吉の日課となっているのだが、残念ながらその行為の意味はそんな爽やかなものではなく。
からりと、音を立てて窓を引く。
鍵はかけていないから、横にスライドさせるだけでアルミのサッシは簡単に動く。(無用心と言うなかれ、赤子の家庭教師やら並盛の秩序たる先輩やら玄関を勘違いしている知人のため、下手に鍵などかけておくとすぐさま窓を破壊されてしまうのだ、迷惑なことに)
開いた窓から滑り込んでくる朝の風。
硝子越しにも鮮やかな色合いを見せていた空は、直(じか)に仰げば目に痛いような青をしていて。
今日もよい天気だ、と。
半ば現実逃避で形成された思考を空回りさせながら綱吉は恐る恐る仰がせていた瞳を下へと向ける。
見えるのは張り出した一階部分の屋根と玄関から続く狭いアプローチ。小さな庭先とそれを取り囲むようなコンクリート塀。アプローチを抜けた先の門柱と、それに寄りかかるように小さく座り込む少女。
二階にある綱吉の部屋の窓からは、特徴的な髪型とほんのひとしずく秋の深い空色を映したような不可思議に青味がかった黒髪が見えるだけであったけれど。
「…凪…」
また、来てる。
はあぁ、と。朝から幾度目になるか分からない、そして今朝一番の大きなため息を吐き出しながら、綱吉はそっと窓辺を離れて朝の支度に取り掛かる。
開け放ったままの窓から流れ込んでくる朝の空気は思いがけず冷たく、しっとりと湿りを帯びている。
それは外で座り込む、少女を包む空気と同じ温度。
気遣わしげに浅く寄せられた細い眉の下、飴色の瞳が未だ鳴り続ける目覚ましを眺めて、それからゆっくりと手に取ったそれを操作してアラームを解除する。
枕元に戻した時計の針が示すのは、午前六時を少し過ぎた頃だ。
「おはよう、ボス」
玄関先。押し開いた扉の向こう。
微笑みの欠片も浮かべることなく、けれど少しだけ目元を弛めた表情で大きな隻眼が真摯に仰ぎ見つめてくるのに、綱吉は、今日こそ、と意気込み吸い込みかけていた空気を結局声に変えることができず大きなため息として吐き出す。
今日こそ、帰ってもらおうと。
今日こそ、この朝の迎えをやめさせようと。
決意はしても、どこか必死さを含んだ瞳に見つめられれば決意は呆気なく崩されてしまう。
―――そんなことを繰り返して、もう三日は経っているのだが。
諦めを色濃く含んで吐き出したため息のまま、足元に下ろしていた視線を少しだけ上げて。
「おはよう、凪」
挨拶を返せば、潤むような艶のある黒の瞳がほんのわずか、複雑に揺らぎ。
けれどそれには気付かぬまま、綱吉は続ける。
「あのさ、凪。今、時間ある?」
少しの躊躇と、困惑と。映してどこか情けなく歪んだ表情に、問われた方が不思議に感じ、首を傾がせる。
「ボス?」
「いや、早く行かなきゃいけないんならアレなんだけど…。…あー…あの、さ。凪、ちゃんと朝ごはん食べてる?」
こんな早くから家(ウチ)に来てさ、と。
続ける綱吉に、少女はその隻眼をまるめたままそれでも小さく頷く。
「食べたわ。千種にウィダーインゼリーを貰って、犬は麦チョコ分けてくれた」
「………ウィダーインゼリーと麦チョコ………」
「? なに、ボス?」
事実ありのままに告げた少女は、突然に目前で頭を抱えて唸りだした相手に驚き、心配げに少しだけ高い位置にある顔を覗き込む。
その、覗き込んだ矢先。
「凪!」
勢いよく上げられた面。
勢いよく上げられた声。
突然のそれらにまた驚き、髑髏は返事をすることもできずにただ呆然と見開いた瞳を幾度も瞬かせ。
その間にも、綱吉は言葉を続ける。
「凪、そんなんじゃ身体もたないよ。それに、最近寒くなってるんだし、コートまででなくても、マフラーとか手袋とか…。ああ、そーじゃなくって。うん。だから、凪」
「おいで」
言葉と共に、差し出された白い手。
目の前で忙しなく捲し立てる綱吉の求めていることはほとんど分からなかったけれど、最後の言葉とその差し出された白の手のひらだけは、妙に鮮やかに髑髏の意識に焼き付く。
そして。
フラッシュ・バックのように、蘇る光景。
状況も、周囲の風景も、呼びかける声も言葉も手のひらの持ち主すら、何もかも違うと言うのに。
それは髑髏を掬い上げ救い上げた、青年の手のひらにひどく、似ていて。
呆然と。
唯一だった光景を呆気なく再現してのけた手のひらを見つめる。
手をとることなど、思いもつかず。
「おいで、凪。朝ごはん、一緒に食べよう?」
おいで、と。
繰り返された優しい声に。
深く考えることもできずに、髑髏の足がふらりと一歩、進み出る。
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