忘れてください苦しめたくない。



 風が流れる。
 秋の風だ。
 寒さよりも哀しい、涼しさを孕んだ。
 吹き込む風が広くもない室内にある物を、緩やかに、緩やかに、なびかせて。その中には、血のような朝焼けの光に透けてなお青白い貌にかかる飴色に透けた額髪や、視界の端を掠めて揺れる見慣れた自身の漆黒の髪もある。
「ふぅん…?」
 白の指先を伸ばして、掬う飴色の髪。それは硬そうな見た目に反して、存外柔らかに指先に絡む。
 軽く引っ張っても、その目は開かれず。
「これは『誰』の望んだことなのかな?」
 朝焼けの赤に照らされて。
 染め上げられた赤に溺れるように埋もれた少年は、今はただ、眠るのみ。


* * *


 どんな日でも。
 朝は平等に、訪れる。

 陽の光は誰にも等しく、降り注ぐ。



「ぅ、ん…」
 眠たげな声と共に、ベッドの上の細い体が光を避けるように寝返りひとつ。シーツの波に溺れるように緩慢な動作で身を捩った少年は、そのまま再び眠りの淵へと沈み込もうとして。
 ふと。
「おはよう」
 聞き覚えのない、声。
 ―――否。
 聞き覚えは、ある。耳に馴染まぬわけでもない。
 低い響きの綺麗なテノール。
 それは、敢えて言うなら『聞き慣れたくなかった』声だ。
「…ふへ?」
 声に呼応するように、間抜けな掠れ声が浅く開いた唇から漏れて。眠たげな瞳が、ゆるりと開かれる。
 朝の強い光に透ける丸い瞳は、色素の薄い鼈甲にも似た、色。
 その瞳に映るのは、強い朝陽を背に負った、すらりとした痩身の人影。
 ただ黒い、影。
「…だ、れ…?」
「人が挨拶してるのに、寝惚けてるなんて本当いい度胸だね」
 礼儀も知らないの?と。
 続けるテノールに宿る剣呑な響きに、寝惚け眼が急激に色を濃くし。
 相反するように、その寝起きの顔から血の気が引くよう。
「沢田綱吉?」
「ヒバリ、さん…!?」
 揶揄めいた笑い交じりに自分の名を呼ぶ声に。
 叫ばなかったのは、恐怖と寝起きの体に引きつった咽喉がそれだけの力を持っていなかったと、それだけの、こと。



「…ヒバリ、さん?」
「何?」
「えーと…何か召し上がられます?」
「いらない」
「…じゃあお茶でもいかがですか…?」
「いらない」
「………」
「………」
「………」
 朝のひととき。
 そう。
 学校がある日、登校までの朝の時間なんて本当に『一時』だ。まして、朝に強くない綱吉にとっては尚更に、朝、のんびり過ごす時間がある日の方が珍しい。朝食を食べる時間すらないこともざらではないのだ、実際。(それでも最近は、昔に比べれば大分減っているのだが)
 大体に、のんびり過ごす時間などあるくらいなら、五分でも、一分でも、三十秒でも長く、布団にくるまり朝の惰眠を貪っていたいというのに。
 なぜか今、昇ったばかりの朝陽の差す中、綱吉は招かぬ客人と言葉を交わしている。
 正確には客人とすら呼べないだろう、不法侵入を果たして今この場、綱吉の自室にいる、中高通じての『先輩』で、『風紀委員長』。(もう半年も前に卒業しているのに、どういうわけか元とつける気にはなれない)
「…えーと。何の用、ですか…?」
「…しらない」
 即答。
 もうヤダ、何なんだこの人。
 かれこれ数年来抱き続けている思いを改めて噛み締めながら、朝から半ば泣きそうになって綱吉は顔を俯ける。
 綺麗な姿と裏腹の獰猛さを知っているから、どうしても強く出れはせず。かといって、常識から外れる、どころの話でなく、常識の方が恐れおののき裸足で逃げているようなこの相手を前にして、小市民的感覚しか持たない綱吉がとツッコミまずにいられるはずもなく。けれど、その小市民的感覚しか持たない綱吉に、この目の前の青年にツッコミの言葉を投げかけるなど笑い話にもならない冗談事だ。
 結果。
 続かない会話。
 窓枠に背を預ける形で桟に横向きに腰掛け足を組んだ青年と、フローリングに直線で構成されたような正座をする少年。
 目線も合わなければ、その身体さえ向き合っていない。
 それでも、どちらも去ることはない。
 その真意は互いに、知れないけれど。
「……ヒバリさん」
「………」
「ヒバリ、さん」
「………」
 幾度もの、呼び掛け。
 返る答えはおろか、目を伏せたまま反応すらない相手の姿は、まるで眠っているようだったけれど。
 起きていることが、綱吉には『理解(わか)って』いたから。
「ねぇ、ヒバリさん」
 そろそろ、タイムアウトの時間が近い。
 その証拠に、止めていなかった目覚ましのベルが鳴り始め。叫び続けるベルの向こうで、階下から母親の高い声が響いてくる。
 だから、聞かねばならないこと一つ。
 これだけは、どうしても知っておかなければならないこと。
 それでいて、多分。
 自分のこれからにとって、最もどうでもいいはずの、こと。
「今日は、どこからオレの部屋に入られましたか?」
 高くも低くもないその声に。
 けたたましいベルにも階下の高い声にも、揺らぐことのなかった白の目蓋がようやくその幕を上げ、漆黒の瞳が、窓の外から部屋の中、少年の顔へと向けられ。
酷薄げな薄い唇が、緩慢に開かれて。
「ねぇ、草食動物」
「…沢田綱吉です。何でしょうか、ヒバリさん?」

「君はどこまで『憶えて』いるの?」

 けたたましいベルの中。
 それでも妨げられることもなく、歪まず淀まずその綺麗な響きは綱吉の耳へと届く。
 その言葉は朝陽に溶けることなく、静かに部屋の中に、満ちて。
「―――最後に一つ、教えてあげる」
 え、と。
 突然変わった話題に、間抜け声を出したきり固まってしまった綱吉に、雲雀はどこか彼らしくない、皮肉めいた笑みを一つ、浮かべる。
 浮かべて、続ける。

「『霧』が、動き出してるよ」
 君は、どうするの?

 漆黒の髪を、秋色の朝風に揺らめかせて。
 綺麗な黒の瞳がひたりと綱吉を見据えてくるのに。
「霧?あの子のことですか?」
 彼女が、どうかしましたか?と。
 問い返す、飴色の瞳を。
 見据える漆黒の瞳は静謐な光を湛えて、見返すのみ、で。





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