忘れてください苦しめたくない。
自らの意思を無視して動く、己の肉体。
閉ざされた感覚の中、一人分のよく知る意志だけが、わずかに染み渡って。
届かぬ声は、いつしか嗄れ。
痛みの残滓だけを抱えて、意識は闇の中へと落ちた。
「…ん、」
目が覚める。
頬に目蓋に感じる熱と光は、やわらかだけれど微眠みに漂っていた意識を引き上げるには十分で。
開いた視界に映るのは、灰色の景色。崩れかけ、所々に剥き出しの配管や鉄骨すら覗いているコンクリートの打ちっぱなしの壁。穴が開き、配管が見えるどころか千切れたコードの端が垂れ下がってさえいる天井。かぎ裂きだらけのぼろ布のようなカーテン代わりの暗幕が中途半端に引かれた窓は汚れに曇り、所々罅(ひび)やテープの継ぎ目すら窺える。
その、決して透明度の高いとはいえない硝子を通してすら、鮮やかに射す濃い茜色の西陽。
強い光にますます濃い陰影を帯びる灰色の風景は、慣れた目にすらひどく物哀しく映る。
「…?」
身を起こせば、体の下にあったのは普段ベッド代わりにしているソファ。差し込む強い西陽に、柔らかな肌触りの布地はその表面を茜に染め、その細い繊維の影すら映し出すよう。
暗い色のその布地と同じく、自身も差し込む茜に染め上げられながら、髑髏は中途半端に身を起こしたままの状態でどこか呆然と周囲を眺める。
黒曜ヘルシーランド。
その跡地といっても過言ではないだろう廃墟は、髑髏たちの根城だ。
そう、根城。唯一、今の髑髏の、帰るべき場所。
だから、この場は、髑髏がいて何らおかしくはない、否、髑髏がいて当たり前の場所、なのに。
付き纏う、違和感。
自分は何故、こんな所にいる。
否。
自分はいつ、この場所に―――。
「あっれー?骸さんおはよーれす。起きたんれすかー?」
没頭していた思考を断ち切ったのは、舌足らずな発音の、声。
懐かしいようなその声に(実際にはせいぜい、丸1日振り程度だろうことは分かっていたけれど)、髑髏は弾かれたように伏せていた面を上げる。
視界に飛び込んでくる、鮮やかな茶金の髪。
「犬…」
思わず名を呟けば、どこか機嫌よく輝いていた双眸が、にわかに鋭さを増して。
「…んだよ、オメーかよ。骸さんはどーしたびょん」
「むくろ、さま」
きつく眉間を寄せて身構え全身で睨みつけてくる犬に堪える様子もなく、どこかぼんやりとしたままの瞳で、髑髏は唯一耳が拾い得た名前を、口にする。
骸。
彼女の、主。
最近は答えてくれることのない、絶対主。
それは、目の前の青年にとっても同じこと、だけれど。
「…骸様、出てたの?」
「はァ?オメー憶えてねーびょん?」
どこまで役立たずなんらよ!
「……ごめん」
強い語気に思わず謝れば、更に苛立ちを募らせたように対峙する相手から舌打ちが返される。
それに身を竦めるでもなく、けれど次の言葉を選びかねた髑髏はその細い眉宇をそっと困惑に歪める。基本的に人と関わることの少なかった髑髏にとって、他人との会話はひどく難しいものなのだ。
互いに見失った言葉の続きに、途切れた会話。
寂寞とした廃墟の風景に、満ちる沈黙。
苛立ちと困惑に張り詰めた空気。
「―――犬、言い過ぎ」
それを破ったのは、低く落ち着いた青年の声。
いかにも渋々といった風情で響いた面倒臭そうな声に、髑髏は眼帯に覆われない左目を一度ぱちりと瞬き、何の気配もしなかったはずの建物の暗がりに向ける。廃墟の薄闇に溶け込むように、そこには一人の長身の青年。
「柿ピー」
「千種」
わずかも重ならない、音と声質。けれど、重なる音こそ違えど、それは青年を示すもので。
呼ばれた千種はいかにも面倒臭そうに、はあ、と一つため息を吐き出す。
「犬、自分が骸様に会えなかったからってクロームに当たるな」
「っはぁ!?当たるわけねーびょん!てか命令すんな!自分は会えたからってエバんな!」
柿ピーの根暗!引きこもり!メガネ!!
背後の千種を睨みつけて、歯を剥き出しにしながら去っていく犬の罵声に、
「…眼鏡って何…」
悪口でも何でもないだろ、と眼鏡のブリッジを押さえながら、千種はもう一度ため息。
犬の口調はともかく(あれは主に、幼い頃の実験による舌や歯列の形成不全とイタリア語の発音様式が抜けないせいだ、語尾はともかく)、その思考が出会った頃から成長してないのでは、と思うことが千種にはままある。
まさに、今のように。
それに、比べて。
「…千種。骸様、出ていたの?」
いつの間にかソファを離れ自分の前に立っている少女に、千種は心持ち目を眇める。
真っ直ぐに、それこそ不躾なまでの率直さで見据えてくる黒の隻眼の強さは、初めて出会った頃から何ら変わる所のないものだけれど、その芯に、いつからか異質なものを感じさせるようになって、久しい。
異質―――自分と、自分達とは、相容れない。
眼鏡の奥、眇めた瞳で見下ろしてくる千種が何を思うかなど分かるはずもない髑髏には、その探るような視線も、沈黙も、今はひたすら焦れるばかりのものでしかなく。
「千種」
再度の、呼びかけ。
その声に、ようやく千種はその薄い唇を開く。
「昨夜遅くに、お前の肉体(カラダ)で帰ってきて、無理をさせたから起きるまで寝かせておけ、と」
その時の情景を何一つ思い描かせない訥々とした調子で、千種は昨夜の骸の言葉を繰り返せば、
「…無理?」
細い首が、幼い仕草でかくりと傾ぐ。
何のこと?と問いかけてくる隻眼に、千種が、さあ、とばかりに左右に首を振ってみせれば、白い眉間に浅く皺寄せられ。
「…むくろさま…?」
呟き。
縋るように紡ぐ言の葉は、彼女にとっていつもその名。
ぼうと空を視るような大きな隻眼は、けれど次の瞬間、明確な色を帯びて瞠られ。
「…もしか、して…」
喘ぐように続けられた呟きに、千種が首を傾げるより、早く。
髑髏の身体は、彼のすぐ脇を擦り抜けていて。
「っ、クロームっ?」
慌てて振り向いた千種の瞳に、映るのは今にも扉を潜り抜けようとしている華奢な少女の小さな背中だけ、で。
「…行って、きます」
呼ばれた名に、ほんの一瞬足を止めその薄い肩を強張らせた少女は、一言。
それだけを残して、飛び出して行き。
その脳裏を鮮やかに彩るのは、飴色の光と、首筋の白と、溢れるような、真紅と―――、
* * *
終業の鐘の音が響く。
椅子に座ったまま、ぐ、と両手を高く上げて伸びをした綱吉は、ふと視界の端を遮られた心地でそちらに顔を向ける。朱金がかってきた西陽が射す窓とは、反対。雑然とした机と椅子が列をなす、教室の側。
「山本?」
上げた視線の先に親友の姿を見つけ、綱吉は微笑みながらかくり、と首を傾げる。
何か用?とでも訊ねるように。
「なー、ツナ」
「なに?」
「今日の放課後、ツナん家行っても、大丈夫か?」
「…?別に、全然いいけど…」
いつも、そんな了承もなく気軽に顔を出してくれる友人の問いに不思議そうに瞬きながら、そう返す。
疑問そのままに飴色の瞳を丸めて首を傾げる綱吉に、山本は小さく苦笑して、
「じゃあさ、話、そこで聞いてもいーか?」
その言葉に。
飴色の瞳が大きく瞠られる。
―――それは、自身に対する驚き。
「……忘れてた?」
「ま、さか…そうじゃないけど…や、そーなの、かな…?」
瞠った瞳のまま、どこか呆然と、言葉を紡ぐ。
忘れた、つもりなどなかったのに。
どこかで途切れている、『今日のこと』に対する思考。
昨日あれほど、帰ってから散々に頭を悩ませ思考行動の全てを支配していたというのに、だ。
どうして、と。
脳裏を支配するその自問に、白い頬を強張らせ思う以上の深刻さを見せる綱吉の様子に気付いてか気付かずか、座る綱吉の顔を覗き込んだ山本はその黒の瞳を飴色の瞳に合わせて、
「どっちだよー!」
あはは、と。快活な笑い声に、驚愕に固まっていた綱吉の頬も次第にゆるりとほどけいく。その飴色の瞳の奥や曖昧に綻んだ唇の端に、驚愕のものだけではない硬さを残しながらも、何とか山本に笑みを返す。
それは長年の付き合いの友人の目に、多分にぎこちなく映っただろうけれど。
「…うん。じゃあ、家で、」
ちゃんと、話すよ。
十代目ーっ!と。
広くもない教室の中で叫び上げ、綱吉の席へと向かってくる獄寺を視界の端に捉えながら、綱吉は囁くように声を伝える。
山本にだけ、聞こえるほどの。―――否、それは、山本にすら届き得ぬ音。
あいつはいつも元気なのなー、と。
走り寄ってくる獄寺を眺めながら大らかに笑う山本に曖昧に笑み返しながら紡いだ囁きは。
それはまるで、宣誓のように。
自らの迷いを切り捨てるための、言葉。
* * *
「ボ、スっ!」
獄寺と山本と綱吉と。三人連れ立って高校の校門を出えようとしたところで、声。
何かに追い立てられるかのように、切羽詰った。
「え…?」
耳に覚えがあるようなその声は、けれど聞き慣れぬ響きのせいか誰と特定することができず、綱吉たちは驚きと困惑を顕わに肩越しに声の方を振り向く。
途端、目を灼くのは眩(まばゆ)い西陽。
朱を帯び始めた金色の、その光の強さに目を眇めれば、凝らした眼に映る異質の少女。
校門の近くで帰路に着く多くの生徒達とは違う、隣町の他校の制服を身に着け、他の多くの生徒達の波に抗うかのように高校に向かい来る向きで綱吉達の元に走り寄ってくる。逆光のせいで特徴的なシルエットの髪型や、大まかな身体の線くらいしか分からないけれど。
それは。
「えっ、な…!?」
目を瞠った綱吉が驚きの声を上げるよりも、先に。勢いよく、少女の細い肢体が身体ごと振り返った綱吉の胸に飛び込んでくる。
抱きつくというに及ばない、正にぶつかるように綱吉へと飛び込んできた少女を受け止めかねよろめいた綱吉が、何とか少女を抱き止める頃。
彼の制服の布地に縋るように爪を立て、何かを確かめるように、或いはどこか祈りのように、伏せた白の額を綱吉の胸元に押し付けるように荒い息を吐いていた少女が顔を、上げる。
「…ボス…生きて、る…?」
熱に火照り薄紅を帯びた頬と荒い呼吸に紛れて吐かれた、安堵に似た吐息。透明な黒の隻眼を潤ませる澄んだ水は、果たして何に対するものか。
熱を帯びたように熱くやわい少女の肢体を身近に感じ、上げられた面に漂う艶めいた風情に、呑まれたように綱吉が、呼吸を止めて硬直している間。少女はそんな綱吉に気付く余裕もないように、幼さの濃い白の面を見つめてもう一度、呟く。
「……生きてる……」
少女の―――髑髏のものでない、けれど紛れもなくその身が得た記憶。
押し込められた力に抗い必死に声を上げるしかなかった、昨日の夕暮れ。
残滓のように残るのは、見開かれた飴色の透明さと首筋の白の頼りなさ、その日の最後の太陽に橙を帯びた金に染まる銀の穂先の危うい鋭さ。
焼き付いて離れぬ赤と、痛みの記憶。
その断片の光景に最悪の結果すら覚悟していた少女は、額に感じる相手の鼓動に、指先に感じる相手の熱に、触れる相手の生を実感する。
生きている。
生きて、いる。
徐々に浸透していくその事実に、髑髏はくず折れるように全身から力が抜け落ちるのを感じる。
膝から、腰から、指先から。
力の抜け落ちた肢体は、重力に従って堅い地面へ、と。
「わ!?ちょ、大丈夫っ?」
地面に膝をつく前に、両腕を掴んで支えてくる手のひら。
男性にしては華奢な、けれど髑髏に比べれば随分としっかりとしたつくりの手が、少し痛いほどの力で少女のやわい二の腕を掴んで。
その熱に、力に、痛みにすら、泣き出してしまいそうな。
生きている証のそれらに涙すら零せそうと思いながら、けれど髑髏の頬を、首筋を、伝い落ちるのは冷えた汗。
じっとりと湿った、冷たい。
綱吉の手に支えられながら、おかしい、と脳の奥で鳴り響く警鐘。
黒曜からここまで全力で走り通したのだから。最悪の予測を呆気なく裏切られたのだから。疲れと安堵に、気が弛んだだけ。
そう、言い張るには今、自分を襲っている脱力感は。
それを理由にするには、この遠退きかけている自らの意識、は。
「凪?」
―――おかしい。
「っ、…!?」
耳に届いたその音は、一人を除いてもう呼ばれることのないはずの。
それはあの日、死んでしまった少女の。
名前。
確かめるために上げようとした首すら、もう上げる力は残っていなくて。辛うじて空を彷徨うように動かし得た白の指先に、掠めた相手の服の布地にようよう縋る。
―――もう、その程度の力しか、残されていない。
何故、と。
問うて確かめる声すら出せないまま、けれどそれは繰り返される。
「大丈夫!?凪っ!?」
なぎ。
耳に届いた音は、聞き違えようなく。
「……むくろ、さま……」
吐息が、呟く。
これは、あまりに。
なぎ、と。
呼びかけ続ける優しい声をどこか遠くに聞きながら。
耳の奥に蘇るのは、同じように優しい響きで紡がれていた、言葉。
『忘れてください』
何も、かも。
それは。
その声は、彼女のとても知る、優しい声。
「ちょ、凪っ!?なぎっ!!」
くたりと。腕にかかる重みが一層強くなり、少女の肢体が完全に脱力する。弛緩しきった肉体は、たとえ小さな少女一人分のものと言えど、筋力があるとはいえない綱吉からすれば結構な重さで。
耐え切れず、重さに引きずられるようにアスファルトにへたり込みかけた綱吉を見て、呆然と成り行きを眺めるだけだった二人のうち、先に正気に返った山本が支えようと腕を伸ばす。
「ツナっ、」
伸ばした腕。
支えようと、踏み出した一歩。
それは恐らく、数秒にも満たない時間。
「わっ!?」
「ぅお、!?」
伸ばした腕の中。
勢いよく飛び込んできた、細い体躯。
背中から飛び込んできた綱吉の身体に驚きと衝撃で一瞬体勢を崩しかけるが、予想外に軽いその重みに山本はすぐに均衡を取り戻す。
そして、上げた瞳に。
彼が、飛び込んできたのではなく突き飛ばされたのだと、知る。
「十代目っ!?」
こちらも漸く我に返ったらしい、獄寺の声。けれど、綱吉の視線は、名を呼ぶ獄寺にも、彼の背を支える山本にも、向けられることなく。
「…な、ぎ…!?」
綱吉を突き飛ばした細腕をゆっくりと下ろし。
面を伏せたまま、少女はしっかりとした所作で立ち上がる。
その少女を、呼ばうはずの綱吉の声はどこか頼りなく揺れ、
「…Addio.」
さようなら、と。
呟く高い声の囁きは、耳に馴染まぬ異国の響き。
空気に呑まれたように言葉はおろか声一つ発することのできない三人に、少女の上げられた面、その女性らしい肉厚の唇が、どこか蠱惑げに両端を吊り上げ。
逆光で影になってそれ以上窺えない表情に、三人が目を凝らした、矢先。
立ち込める、霧。
乳白色のはずのそれは、けれど朱金の西陽を反射して、蜜のような甘い黄金(きん)に染め上げられる。
幻想的、と言うよりは。
幻惑するよう、と言う方がぴたりとくるような、その雰囲気。
少女を取り囲むように唐突に流れてきた幻惑の霧は、それがうつつのものでない証のように唐突に、失せて。
後に、残るのは。
「っ、!?」
息を呑む音。
晴れた霧の跡、少女の佇んでいたはずの場所に佇んでいたのは、一人分の人影。
ただしそれは、明らかなまでに男性の。
―――息を呑む音は、二人分、だけ。
*
『忘れてください』
合わせた飴色の瞳に囁いたのは、つい昨日のこと。
けれど、随分と久しく感じられるのは、青年に―――骸に向けられる瞳の色が、全くに異なっているからだ。
呆けたように見開かれた、その零れそうな飴色の瞳、が。
『忘れてください、何もかも』
合わせた双眸と、低めた声音。
夕陽の中、赤に染まる皺帯びたシーツ。
注ぎ込んだ暗示は、あまりに呆気なく、少年の脳を支配して。
*
「こんにちは」
それとも、こんばんは、ですかね?
低く艶帯びた、その声。聞き覚えなどないはずの声が、ひどく愉しげに話しかけてくるようなのに綱吉はわずかに小首を傾げる。
目の前。数歩分、離れた先。佇む青年の深く藍色がかって見える黒髪が、凪ととてもよく似た形で結われていて。
初秋の、いっそ怖いほどの鮮やかな西陽を背にした表情はほとんど窺えないけれど、それでもなぜか、皮肉に笑んでいるような、と。
「……?あの。どなた、ですか……?」
くふふ、と。
笑う声がどこか奇妙に、不吉に響いた。
「ツ、ナ?」
「十代目…!?」
驚愕の声を上げる山本と獄寺とは対照的に、綱吉と向かい合うその青年が、ただ悠然と皮肉の笑みのまま佇むのみ、で。
こぽ、と。
泡沫。
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