忘れてください苦しめたくない。
生きているのか、生かされているのか。
その区別すら曖昧な世界の中で、それでも『生きて』いくためにはどうしてもそれは、必要な感情だったのだ。ともすれば境界すら見失いそうな生の中で、それだけが『己』を保ち、形作るもの。
それがもしかしたら、紛い物だったとしても。
それだけ、だった。
曖昧な生と曖昧な死の中で、それ以外の執着など生まれるべくも、なかった。
―――なかった、のに。
『ボンゴレノ、霧ヨ』。
響いたその呼称に、動かし得ない表情の奥で骸は皮肉に笑う。
彼らもまた、その名で骸を呼ぶのかと。その呼称を、どうして彼らが使うのかと思えば、可笑しいとしか思えない。
「『骸』ヨ」
「生ナキ屍、首ヲ落トサレシ死体」
チューブ越しに伝えられるのは、まるで特徴というもののない声。そして、淡々と、無個性な声は続ける。
それは一人の人間のようであり、複数の人間のようであり、幾多もの声の重なり合いのようでも、あり。
「裏切リニハ、死ヲ」
「沈黙ノ誓イハ、果タサレナイ」
「果タシ得ナイ」
「同胞(はらから)ヨ」
「…オ前ハ、何ヲスルツモリダ?」
「ソコカラ出タクハ、ナイノカ」
響く声に。
水牢の中、一つこぽりと、泡沫が生まれ。
ふ、と。
水牢を取り囲む人影が、いつの間にか男達と対峙する形で一つ、増える。
否、増えたのではない―――変化、したのだ。
「―――悪フザケガ過ギレバドウナルカ、分カッテイナイワケデモアルマイ」
無個性な声が告げる先は、相対するようにいつの間にか水牢に凭れかかる一人の青年。
薄暗闇の中、伸び始めらしい襟足の辺りの髪を緩やかに肩に流しながら、何も分かっていないように笑って小首を傾げる姿は、ひどく自然で、そしてそれゆえに演技がかって。
特徴的な藍を帯びた黒髪は、今この場では暗色の髪としか見る者の目に映らないが、けれどその髪の間から覗く藍と紅の二色(ふたいろ)の双眸は闇に沈み切らずに鮮やかに相手を射て。
そこに浮かぶのは笑みだ。
無邪気を装うような仕種とは裏腹に、相手を嘲弄するような。
「貴方がたに僕は殺せない。現在、唯一の『成功例』である僕は、殺すには惜しい存在でしょう?」
(悟らせるな)
「そもそも、先に取引を持ちかけてきたのはそちら、でしょう?」
(悟らせるな)
艶やかに、片頬を歪める。ひどく対称な造りの顔がその均衡を崩す様は、いっそ毒々しくすらある、凄絶。
「ソウダ」
「ソシテオ前ハ、ソレヲ請ケタ」
「自ラノ自由ノ代価ヲ、ボンゴレ十代目ノ命デ購ウト言ッタノハ、オ前ダ」
(悟らせるな)
次々と、響く言葉は畳み掛ける。
感情のないその声の重なりは、ひどく説得力をもってその台詞を響かせるけれど、しかし、唯一その声を向けられている青年はいささかも動じる素振りを見せず、優雅に佇み、ゆるやかに笑んだままで。
「だから、果たしたでしょう?沢田綱吉、―――ボンゴレ十代目は、ボンゴレを継ぎたいのであって、マフィアになりたいわけではない。しかし、それでも彼は王冠を求めている。―――この肉体を解放するため、だけに」
「………」
「僕が貴方がたと交わした取引は『ボンゴレ十代目』を消すことであって、それ以上でも以下でも、ないはずだ」
「―――ソレハ、詭弁ダ」
「イヤ、詭弁ニスラ、満タナイダロウ」
(彼女のことだけ、は)
「それは、この後の結果次第、でしょう?」
傲然と顎を上げながら、酷く自信ありげに、微笑む青年の美貌。
* * *
ベッドの上の、数頁端の折れた漫画本。
投げ出された三叉の槍と、立ち竦むように立ち尽くす己の暗く淡い影。
鮮やかな朱に染められた、皺を帯びたシーツ。
蒼白の頬に閉じた目蓋、伏せた睫毛の濃い陰影。
眠るように横たわる。
死んだように、横たわる。
少年。
沢田、綱吉。
「(さ わ だ つ な よ し)」
空気を震わすことなく、唇でただ、音のみを模る。
頭の奥で、泣き叫ぶこどもの声。
寡黙な少女のあまい声が、絹裂くように絶叫している。
慟哭、している。
そして。
「遅かったですね、アルコバレーノ」
気配と言うより最早勘で、背後に生じた違和感に笑みを交えた調子で声を掛ければ。
「それがお前の答えなのか、六道骸」
撃鉄を上げる音が、応じた。
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