忘れてください苦しめたくない。



 秋風が、濃い。
 緩やかで、それでいて色濃く秋特有の冷ややかさをのせた空気が、そこだけ開いた窓からゆるりと室内へと流れ、交じり合ってゆく。交じり合い、対流し、侵食し、どこか暖かに淀んだ室内の空気を散らして、後に残るのは冷え冷えと澄んだ、秋の空気。
「…え、?」
 音も気配も、無かったはずだ。思いながら、気付けば変化していた顔や首筋、七分袖から下の剥き出しの前腕を、つまりは外気に晒されるがままの素肌の上を、撫でる空気の流れる温度に慌てたように本に伏せていた顔を上げる。
 半ばと言うかほぼ十割、無理矢理積まされた、文字通り命を懸けた経験と押し売り同然の赤ん坊の家庭教師のスパルタ教育のお蔭で、危機回避能力とそれに通じる気配を読む能力、そして血筋に宿るという超直感の精度は格段に上がっている。
 それは、無意識の内でも。
 自負するわけではないが、それでもそれは、確実に事実であったはずだ。
 あったはず、なのに。
「遅過ぎますね」
 低く、それでいて多分に艶を含んだ声。甘さもないのにひどく耳に心地好い声が、冷ややかに告げる。
 その声、が。
 耳に届いたか、届かないかの間。
 綱吉が上げた視線を周囲に巡らせ始める、刹那、前。
 蛍光灯に明るく照らされていたはずの綱吉の視界が、窓の外、太陽が西に消え夕闇に染まり始めた景色よりも暗く、沈み。
「お久し振りです」
 自室の、ベッドの上。寝転んで読んでいた漫画本は、開かれたまま、もしかしたら変な折れ目がついているかもしれない状態で仰向いた首の下。
 世界が回ったと思った次の瞬間には、うつ伏せから仰向けに。
 そして、上身と漫画とを支えていた両腕は一纏めに頭上で拘束され、シーツの上に投げ出されたままの両足は上手い具合に関節を押さえられているらしくわずかも動かせず、おまけに体格差を使って押さえこまれているせいか胴を捩ることすらままならない。
 よって、殆ど選択の余地ない視線の先には。
「夏振り、ですね?」
 どこか不安定さを含んだ、危うい美貌。
 それはきっと、黒とも青ともつかぬ曖昧な髪色のせいだけでも、対称に整いすぎた白皙の面のせいでも、右と左で全くに色を異にする不可思議な双眸のせいだけでも、なく。
「お元気そうで何よりです」
 空々しい笑みにその二色の瞳をしならせて微笑んだ青年は、ベッドの上に綱吉を押さえつけた状態で顔を合わせ、嘯くような挨拶を寄越してきた。

*

 今日は、普通の、極々普通の、ありきたりな一日だったはずだ。
 ―――ありきたりな一日、で、なければなかったはず、だ。

*

「む、くろ?」
 零れた声は、思いの外掠れ。乾いた咽喉に、張り付くような空気の感覚と、引き攣れ切れるような小さな痛み。ごくり、と唾を飲み込めば、その音は奇妙な静寂に包まれた部屋中に響くように、大きく感じられ。
「はい」
 端麗な顔が、にこやかに応じて寄越す。視界いっぱいに広がるその顔は、常と変わらぬような薄い笑み。
 それはもう、一年以上は見ていなかった相手だ。
 言葉を交わすことは、よく、とは言わないまでも時折あったが、そのほとんどは髑髏の言葉や或いは髑髏の姿を通して、だ。そうせざるを得なかったからなのか、それとも骸がそうあることを望んだからなのかは、綱吉は知らない。
 そして。
 知らなくていいとも、思うのだ。
「…ひさし、ぶり?」
 引き攣れた咽喉でもう一度唾液を飲み込んで、辛うじて挨拶のようなものを返せば、薄い笑みを纏っていた相手が微かにその笑みを深め、
「でしょう?夏振り、です」
 それは、一週間程前。夏休みの終わり。
 夏の盛りをわずかに下り始めた、それでもまだ暑い日。人々の話題や店先に、秋物が並び始めた頃。唐突に秋の色が濃くなり始めた最近を思えば、確かにどこか懐かしく、遠い日のようにすら思える、あの日。
 髑髏の姿のまま現れた、あの日。
 綱吉が二人目に、渡伊を告げたあの日のことか。
 それとも一年以上前。盛夏の頃。
 何の前触れもなく久しい『六道骸』の姿で現れた、あの、夏祭りの日のことか。
 どちらにしろ、夏振りと言えば確かに、そうなのだろう。
「何の、用ですか?」
 見上げた視界いっぱいに、整った貌。
 右目の濃藍と左目の紅が、妙に目を惹いて、視線を逸らせない。
 それを見透かすように、目の前の二色(ふたいろ)の瞳が、しなやかに笑み歪み。

「お別れを言いに」

 告げられた言葉は、柔らかで。
 紅の瞳が、ゆるくひかりを帯びた気が、した。

*

 とてもとても、普通の日だったはず。
 普通の日で、なければならなかったはず。

 ―――今日、までは。

*

(―――いま、さら。)
 ふ、と遠退く意識の端に、洩らす微かな笑み。
 いつの間にか首筋で輝く、三叉槍の鈍い銀の煌きを眺めながら、思い出すのは今日最後に見た、二人の友人の顔。





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