沈黙の距離に打ちのめされた



「―――――ちょっと」
「え?」
 不意に。
 何の前触れもなく耳に飛び込んできた声に、綱吉は慌てて瞳を瞬かせる。
 立ち戻った気分の視界に映る現実は、容赦ない朝の光に満ちて目映く、驚きに瞠った眼はすぐにも眩む光に細められ。
 その視界の丁度正面に、声の主。
「―――ひっ、ヒバリさん…!?」
 驚きに上擦る声は、当然と言えば、当然。
 気付けば来ていた朝の中、まるで時計仕掛けのように意識にないまま学校へ向かおうとしていたらしい自分の前に、まさかあの『雲雀恭弥』が現れるなど、全く予想外だ。
 身体の内に外に、未だ纏い付くのは夢の残滓。
 そんな中、まるで性質の悪い白昼夢でも見ている気分で、幾度も幾度も目の前の人物の姿に視線を走らせるが、その姿はやはり雲雀としか思えず。何かの勘違いであってくれとばかりに幾度も瞬きを繰り返すが、しかし。
「…何?君、咬み殺されたいの?」
 見詰めてくる眼差しの剣呑さのまま、突き付けられる限りなく理不尽な台詞は、正しく雲雀恭弥の物言い。それに、条件反射のように身を震わせて。
「ひいぃっ!滅相もございませんですっ!」
「だったら何?立ったまま居眠り?」
 随分と器用な子だね、と。
 すみませんごめんなさい!と訳も分からず頭を下げる綱吉に対して、当て擦りなのか揶揄なのか判然としかねる言葉が、低い美声で返される。その、面白がる声音に、険はなくて。その違和感に、漸く綱吉の頭が回り始める。
 ―――どうして、雲雀はこんな所にいるのだろう?
「沢田綱吉?」
「え?あ、いえ…えっと。……ヒバリ、さん?」
「だから、何」
 だから、と問われても。
 求めるべき正しい問いが見出せなくて、何より、声を掛けてきたのは雲雀の方だ。
「え、いや…。ヒバリさん、こそ。オレに何か、用事があったんじゃないんです、か?」
 恐る恐ると。まるで違えるとその場で命を落とすとでも言うような慎重さで紡がれた綱吉の問いに。
「赤ん坊から聞いてないの?」
 返されるのは、そんな答え。
 それに、え、と驚きに見開かれた飴色の瞳が茫然と見上げてくるのに、聞くまでもない綱吉の答えを察したらしい雲雀は、ふぅん?と純粋な疑問と興味が相半ばしたような視線を向けて。
「リボーン?」
 告げられたよく知る名前に、そういえば、最近姿を見ないなぁ、なんて。どうにも呑気すぎる調子で首を傾げる綱吉に、雲雀の漆黒の瞳が半眼に呆れを浮かべて。
「…よく分かんないよね、君たちは」
 まるで心底不思議なように呟く雲雀に、それを雲雀にだけは言われる筋合いはないと心底綱吉は思う。思う、だけだが。そもそも不思議なのはリボーンであって、断じて自分ではないはずだ。
「群れてるのかと思えば、そうでもないし。赤ん坊は家庭教師って言ってたけど」
「…アイツ的にはそれが正解なんだと思います…」
 マフィア教育のための家庭教師なんて綱吉は一切認めていないし今後認めるつもりもないが。
「へぇ?でも、その割には甘やかしてる、よね」
 くつり、と。
 喉の奥笑いながら告げられた言葉に、綱吉は、え、と思わず固まるしか、できない。
 スパルタ教育はともかく、甘やかされた記憶など、終ぞない。
 それは、間違いなく優しさも含んでいたのかもしれないけれど、厳しくありこそすれあの赤ん坊の家庭教師が甘かったことなど、ただの一度たりとも、ないのだ。
 何を言い出すんだ、と。
 驚くやら怯えるやらで冷や汗を流しながら目の前の雲雀を見返すしかできない綱吉に、わずかに雲雀は首を傾げて。
「まあ、いいか」
 あっさりと落ちた言葉は、独語。それは全く綱吉に聞かせるためのものではなくて、だからこそ意味を問いかねた綱吉は、怯えながらも問うように、雲雀を見つめる瞳を揺らす。
 ゆらり、と揺れる飴色に。
 覗く気配は、困惑よりも不安よりも、ただ不安定さ。
 けれど、見返す瞳でそれを正確に読み取っただろう雲雀はそれに応じることなく、ほんの少し漂うようにあった人間味をいつもの通りに削ぎ落した硬質な風情で、踵を返す。
 まるで、何事もなかったかのように。
 それに驚いたのは、綱吉の方。
「ヒバリさん…?」
 驚きのまま、呼び止めるように零れる声。
「オレに、何か…用があったんじゃ,ないんですか?」
 問いかける。それは初めと同じ問い。
 違わないと確信するのは、自分の内を流れるという、特異な血の力のせい、なのか。
「―――君は、どう思う?」
 けれど、再度の問いに返されたのは、真意も知れぬ、ただ意味深長なだけの返答。
 ふ、と。眇められた切れ長の目元が、けれど剣呑さよりもいっそ柔らかさを含んだように見えて、綱吉は更に困惑する。
「ど、う。って…」
「『君が』どう思うか聞いてるだけだよ。君は、どうして僕がここにいると思うんだい?―――沢田綱吉」
 その、呼びかけに。
 綱吉の眉間が、更にきつく、困惑に寄せられる。
 それはまるで、試されているかのよう。
 沢田綱吉、を。
 ―――ただの、沢田綱吉、を。
 なぜよりにもよってこのタイミングで、と、未だ身体中に纏い付くような夢の残滓に泣きたくなる。
 きつく、眉間を寄せて。噛み締めた唇、歯列の奥から、迫り上げてきそうな何かを、飲み込む。乾いたままの目頭がただ熱く、深く俯けた顔を上げられないどころか、飴色の瞳すらまともに開けず、きつく瞼を閉ざす。
 雲雀から目を離すなど、今までの綱吉であったらありえない行為だったのに。
 それほどに、今の綱吉は不安定、で。
「…分かり、ません。……ヒバリさんこそ、どうしてオレなんかに、そんなこと聞くんですか……」
 それとも、分かってるから聞くんですか?
 疲れたように、唇から零れる声はどうしようもなく卑屈。そしてそれが、雲雀の神経を逆撫ですることなど綱吉には分かっているはずだ。その程度には、長い時間を共有してきた。
 けれど、まるでそんなことには気付けないというように、気付く余裕もないというように、視線を落としたまま紡がれる綱吉の言葉は、暗く、弱い。
 それは雲雀に対する、隙だ。
 そんな綱吉の様子に、気付いたのか、否か。雲雀はその形良い唇から音にならない溜息を零す。
 全身で、雲雀を拒絶し閉ざしている綱吉は、気付かなかったけれど。
「君が思うほど、僕は全てを知ってるわけじゃない。そしてそれは、僕に限ってのことじゃない」
「、え」
「僕は僕の知る範囲のことしか知らないし、別に知りたいとも思わない。君のことだって、僕に関わらないなら別にどうでもいい。―――興味がないわけじゃ、ないけれどね」
 くつり、と。
 唇は綺麗に弧を描くのに、まるで獲物を見定めるような漆黒の瞳の鋭さがそれを裏切っていて、面を上げた綱吉は思わず息を呑む。
「そしてそれは、君も似たようなものだろう?君は、周囲に干渉しない。受け容れるけれど、そこに君の意志があることはほとんどない。思考くらいはあるのかもしれないけれど、君は周囲を知ろうとしない。干渉しようとしない。そこに君の、判断はないんだ」
「オ、レは。別に、知ろうとしない、なんてことは…」
「別に無関心だと言ってるわけじゃないよ。それが君のスタンスで、性質だってだけなんだろうね。けど、君はそれを知らなさすぎる。だからこそそうして、囚われて、―――ドツボに嵌る」
 告げられた言葉に、琥珀がかった飴色が大きく見開かれる。
 珍しいまでの長広舌に面食らうまま聞き流していた最中、唐突に突き付けられたその言葉は、正しく現状、綱吉の思考を表すのに適切で。
 囚われている。
 ドツボに、嵌っている。
 『沢田綱吉』と『ボンゴレ十代目』との溝に。
 ―――届かない、声に。
 空回りし続ける思考に、ただ茫然と、目の前の漆黒の美貌を仰ぎ続けるしかできない。知らないと言いながら、雲雀の言い分は恐ろしいくらい的確だ。
「…まあ、どうでもいいんだけど」
 ふい、と。
 まるで気紛れな猫がそっぽを向くように、雲雀の唇が次に紡いだのは、そんな言葉。
 そして。
 ―――ふわ、り。
 香ったのは、血の臭いと。
 どこか懐かしいような、遠い記憶。

「              ら、どうする―――?」

 寄せた唇で、直に耳の奥に注ぎ込まれた問いに、一体自分は何と、答えたのか。



「ねえ、いつまで寝惚けてるつもり?学校、行くんでしょ?」
 それとも、この僕の前でサボるつもりかい?
 声に誘われるようにようやく目覚めた心地で世界を映した綱吉の瞳に、映るのは返した黒の背で振り返ることなく歩いて行く雲雀の姿。言葉の通り、その爪先は、確かに綱吉の通う高校へと向かう方角だ。
 だけれど。
 ―――一緒に行く、ってこと、だろう、か…?
 目覚めたばかりのような、それとも未だ目覚め切っていないかのような曖昧な心地の中、それでも離れていく背は消えることなく。

「あら、ツッ君?そんなところで突っ立って、どうしたの?」
 遅刻しちゃうわよ?

 背後の門から響いた母親の声に、振り向けば丁度掃除をしようと玄関先に出てきたところらしい、奈々の姿。
 戻した視線の先にあるはずの漆黒の背は、いつの間にか消えて、





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