沈黙の距離に打ちのめされた
「ママン!ママン!」
盛大に階段を駆け下りる音と共に、泣きそうに必死な子供の声。
もう少年と呼んでいい年頃であるはずなのに、いつまで経っても子供と感じてしまうのは、もはや我が子の一人のように感じているからなのか、はたまたいつまでも甘えたようなその子供の性情のせいか。
どちらだろうと思いながら、奈々は洗濯物を干す手を止めて階段の方を覗き込む。
駆け下りるにも盛大な、ひどく痛そうな音がしたので。
「ランボちゃん?」
名を呼びながら足を向ければ、視界に入るより先に足とお腹の辺りに飛び込んでくる重たいような温もり。その頭の当たる位置に子供の成長と年月の過ぎる早さを感じながらも、近頃はほとんど見せることのなかった甘えた仕草に首を傾げる。
綱吉と遊ぶ、といって息子の部屋を訪れるため二階に上がっていったはず。
だというのに、ランボはこの調子で、当の綱吉は降りてくるどころか起きている気配すらない。綱吉が苛めた、という思考の選択肢など端から奈々には存在しない。(息子や彼を育てた自分自身への信頼ではなく、ただ単に息子にそこまでの気概がないのを知っているからだ)
それに、何より。
少し、雰囲気が、おかしい。
軽く首を捻りながらも、奈々はとりあえずお腹の辺りに顔を埋める黒い癖っ毛に手を伸ばす。やわらかく幾度か叩いてやれば、少し落ち着いてきたのか洟を啜り上げる音と共に幼い顔がおずおずと上げられ。
「ママン…」
先ほどよりも、湿って少し落ち着いた声が、奈々のことを呼ぶ。
それににこりと、笑みを一つ向けて。
「ランボちゃん、転んだでしょう?怪我、大丈夫?」
「ヘ、ヘーキだもんね!ランボさんは強い子」
おっとりとした奈々の問いに、ランボは慌てて目元を拭うと少しいびつな、強がりと分かる笑みで答える。
その様子に、更に笑みを優しくした奈々は。
「そうね。男の子だものね」
「うん!オレっち、泣かないもんね!」
「偉いわね。…でも、何か困ったことがあったのね?」
優しい笑みのまま、静かな声でそう訊ねた奈々に。見上げてくる、乾き始めていた黒の瞳がまた潤みはじめ、
「ツナが、起きない…」
言葉だけ聞けば、寝汚い息子に対しては何を今更、というもの。
けれど、ここ最近様子のおかしい自分の息子と決して離されぬエプロンを握り締める未だ小さな手に、何ともいえぬ不安を抱きながら、奈々はその優しい眉根をそっと寄せた。
「ツナ!ツッ君!起きなさい、ツッ君!」
白く曖昧にぼやけた世界の中で、その声はやけに明瞭に響いて。
高い声。
柔らかで、けれど同年代の少女たちに比べれば幾分落ち着いた。
生まれた頃から、或いは生まれる前からも聞いていたのだろう、よくよく聞き慣れた、女性の。
母親の、声。
「…ん、…」
「ツッ君!ほら、休みだからっていつまで寝てるの」
もう朝よ、と。
大きな声は、その声量や声質の高さというだけではなく、よく綱吉の耳に通り。
「ツナ!」
タオルケットを剥いで床に直に転がされれば、嫌でも目が覚めようというものだ。
「なんだよもー…。まだ十時前じゃん…休みなんだから寝かせてよ…」
「んもう、この子ったら!休みの日くらい早起きして母さんに楽させてちょうだいな。どうせ家で一日中ごろごろしてるかゲームしてるかだけなんだから、アンタは」
寝起きの、篭ったような不明瞭な発音で時計を見ながら愚痴る綱吉に、カーテンを開けながら奈々は返す。その内容はさすが母親で、ことごとく指された図星に綱吉は返す言葉もない。
そんな息子の様子を知らぬげに、床に散らばった脱ぎっ放しの洗濯物を拾い集めながら続けられる、奈々の穏やかな声。
「たまには小さい子達の相手もしてあげなさいよ。忙しいのは分かるけど、最近全然遊んであげてないでしょ?フゥ太くんもおうちに帰っちゃったし、ランボちゃんもイーピンちゃんもさみしがってるのよ」
ちゃんと気付いてた?と。
問うてくる奈々の声に曖昧に頷きながら、綱吉は首を傾げる。今の奈々の言葉のどこかが引っかかるように感じたのだ。
何ということはない、ここ最近、時折口にされる台詞。
そんな台詞の、一体どこが、と思い記憶を反芻してみれば、
「………ラン、ボ?」
どうやらそれが、引っかかっていた言葉。
「え?」
その呟きをうまく聞き取れなかったらしい奈々が振り返ってくるのに、
「ランボ。そうだ、ランボ来てなかった?母さん」
「来てたわよ。つー君のこと起こしに。ツナが起きない、って心配してたんだから」
あとで謝っときなさいよ。
洗濯物を集めるついでに綱吉の部屋を粗方整えた奈々は、何でもないことのようにそう告げる。
その言葉に頷きながらも、泣いてるかなーアイツ、となかなか的確な推理を見せる息子に、奈々は微かに苦笑を零し。
「ねぇ、ツッ君」
少しだけ、声音を変えて。
おもむろに、奈々はそう切り出す。
「ちゃんと、ランボちゃんたちには話してあげるのよ」
「全部話したり、相談したりするのは無理なのかもしれないけれど。大事なことは、難しくてもきちんと話してあげなさい」
「小さいからって、黙っていなくなっても忘れられる、なんて」
―――考えが甘すぎるわよ?と。
その、言葉に。
綱吉は、母親とよく似た形と色彩の飴色の瞳を大きく見開き。
それを見ることなく、奈々の踵が返され。
向けられた背。
数歩も行かない内に、ドアの前。
ノブに、その白い腕が伸ばされ。
「っ、母さん」
呼吸を忘れていたかのよう。
喘ぐように奈々の背を呼び止めた綱吉の声は、ひどく掠れて。
「なあに?」
振り向く仕草やその声は、先程の言葉の片鱗もなく、どこか少女めいてすらいるもの。
そのことに一瞬怯み、混乱しかけながらも綱吉は言葉を継ぐ。
「母さんは…どこまで知ってるの?」
ああ、違う。
そうでは、なくて。
「母さんは…いいの?」
強くはないけれど、真っ直ぐに。
見据えてくる、奈々自身とよく似た、色素の薄い瞳。
その瞳に、にこりと笑み返して。
「ねぇ、ツッ君」
「母さんはね、ロマンのある男の人は、大好きよ」
秋色交じりの夏の日差しの中ですら、まるでやわらかな春を纏うような女性の。
告げられた言葉と笑みは。
まるで餞(はなむけ)のように、ひどく静かに綱吉の内に染み入って。
結局その日は一日中、綱吉は家にいて子供たちの相手をしていた。
相手、といっても幼児ともいえる年齢の頃から比べれば体力的には格段に楽な部分もある。何せ、ペース配分など知った事かといわんばかりに全力投球で体で遊ぶような時期は、もうとうに過ぎている。
基本的に運動神経が切れている綱吉が相手できるようなこともそれほど多くなく、せいぜいテレビゲームだとか音楽を聴きながらダラダラと過ごすとか、それから奈々の手伝いだとか。庭の手入れや買い物など、久々に綱吉が加わって行ったそれは半ば遊びの様相を呈していた。
そんな風に、まるでいつかの日常を辿るような一日を過ごしてみれば、予想以上に吐かれたランボとイーピンは、夕食の前まで少しうとうとと舟を漕ぐようになっていて。
かく言う綱吉も、思う以上に疲れていたが。
「ねえ、母さん」
夕食の後、居候の子供たちは二人でお風呂に入っている。
洗った食器を拭いて棚に戻すのを手伝いながら、綱吉はその細い眉の端を下げるようにして、情けないような笑みを母親に向けて。
「…今日、ランボ達と一緒に寝ても、大丈夫かな?」
困ったような、窺うような。
まるで、これで正解?と訪ねて寄越す幼子のような、それとも悪戯を咎められようとしている子供のような。そんな視線と言いように、奈々はくすくすとおかしげに笑みを零す。
変わったと、思っていても、それでもどうしても変わらない部分というのはやはり、ある。
だからいつまで経っても、親にとって子供は子供、なのだろう。
「何だよ」
くすくすと、それこそやむことのないような笑み声に、綱吉は気分を害したようにわずかに眉間に皺を寄せる。
難しげな顔は、けれど奈々に似た柔らかな女性的な線の強さの目立つ綱吉にはどこかそぐわなくて、奈々の笑みは更に深まるけれど、当然綱吉にそんなこと分かるはずもない。
「母さん!」
「ごめんってば。…いいんじゃない?たまには。最近本当に構ってあげてなかったんだし。癖にならなきゃいいのよ」
ツッ君だって、小学校上がってからも泊まりに行った時なんかは母さんと寝てたじゃない。
笑いながら返される言葉に、
「そっか」
こくん、と頷く様は、見慣れない大人びた色。
けれど。
「―――ちょっと、夜更かしするかも」
「明日ちゃんと、早起きするならいいわよ?」
かくりと小首を傾げるように、奈々を窺うその眼は、やはり変わらぬ幼さが、強い。
そして、よく考えずともこちらも久々な親子団欒を笑い合っていた中に。
「ツナー!上がったぞー!」
「お風呂空きました、ツナさん」
風呂上りの湯気をまとった、子供たちの声。
それに。
「ねぇ、ランボ、イーピン。―――少しだけ、オレの話を聞いてくれる?」
振り返った綱吉の顔が、柔らかに、笑う。
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