沈黙の距離に打ちのめされた



 ああ、これは夢だ。
 ゆっくりと開いた視界に、映るのはゆらゆらと揺らぐ水影。全身を浸すそれは視界全てを透明な暗さで覆い尽くし、けれど取り囲まれている綱吉には息苦しさはおろか、濡れた感触も、冷たさも、伝えることはない。
 ただ、寒い。
 そんな、感覚だけがぼんやりと、脳の中を漂っている。
 この感覚には覚えがある。
 いつだったか、どこでだったか。
 同じ感覚を味わったことが、ある。

 不安定で不可思議な世界の中で、それとも夢だと分かっていたからか、綱吉はいやに冷静で。
 否。
 冷静だったのではなく、ただその区別すらつかぬほどに混乱していたのか。
 だからこそ、その姿を瞳に映すまで、その印象深いはずの奇妙な感覚を思い出せなかったの、か。


 水の中。
 気味悪く揺らぐ大量のチューブやコード。
 その合間、花咲くように水に泳ぐ、艶やかな、青みがかった黒髪。
 閉ざされ窺えぬその双眸が、奇妙な二色(ふたいろ)の。
 はず、の。


「骸っ!」


 幾度目かのその感覚。
 幾度目かの、邂逅。

 夢、と。
 解っていても。
 水の中、その名を叫んでしまうのはもう、幾度目だろうか?



こぽり。
泡沫。



 叫んだ声が、冷え冷えと無機質な、灰色の部屋に響いた。
 反響するでもなく、けれど微かに硬い余韻。
 掠れた声だ。
 高くもないが、低くもない声。

 暗い暗い、水の中。
 眠るように戒めを受けた青年。

 答えが返る、ことはない。


 声に応じることは、ない。





…――――ろ、っ!」

 叫んだ声が響いたのは、まだ熱を帯びきらない、それでも鮮やかに眩しい夏の朝日に晒された、平凡な、ありきたりな、極々普通の高校生男子の部屋。
 ―――『オレ』、の。
 沢田綱吉の、部屋。
 色濃く身体に残る、水の感触。
 冷たさも濡れた感触もなく、ただ全身纏わりつくような、じっとりとした気持ちの悪い水の肌触りだけが残されていて、それは夏の涼をもたらすどころか、ひたすらに不快感を煽るばかりだ。
 けれど、夢の残滓はすぐに霧散して。
 不快感に次いで襲ってきた、現実の、全身が痺れるような倦怠感と鈍い痛み。肩や背中の辺りに当たる堅さと痛みに眉を顰めながら、ゆっくりと開いた視界に映るのは、見慣れた天井と散らかったままの見慣れた床、それから薄い空色の見慣れたタオルケット。
 反転した視界。
 身体に残る堅さと痛み。
「…何で落ちてんの、オレ…」
 見事に上半身がベッドからずり落ちて、背中から床にダイブした状態。足は片足がベッドの上、もう片足が床にも着かず妙に宙に浮いているという、なかなかに奇抜、かつ奇跡的な体勢である。
 どうやら寝ている間に中途半端に転げ落ちたらしい。
 漸く現状を把握したところで、襲ってくる情けなさに綱吉はその窮屈な姿勢のまま軽く落ち込む。
 高校生、しかも最高学年になっているというのに、寝相が悪くてベッドから落ちるというのは、さすがにダメツナな自分でも情けない。しかも、決してベッドが小さいわけでも、不本意ながら身体が大きいわけでもないというのに、だ。
「…なんだかなぁ…」
 はぁ、と重いため息を一つ吐いて、そのままずりずりと床に全身を下ろす。ベッドに戻るより、そちらの方が体力を消耗しないのは、経験的に知っているため。
 そんなことを経験的に知っている、というのも何とも情けない話だと思いながら、半ばタオルケットに包まるように床に寝転べば、降り注ぐ、まだ熱しきらない晩夏の太陽の温もりも相俟って、一瞬飛んだ眠気が再び襲いくる。
 よく晴れた、太陽の光。
 乾きはじめた秋の匂いを含む、どことな涼やかな暖かさ。
 春眠暁を覚えず、とはよく言うが、程よい陽光の温度は季節を問わず人を眠りに誘うものらしい。
 明るい目映さに閉じた目蓋に更にきつく力を込めて、床の上でそのままミノムシのように頭からタオルケットに包まってしまう。明るさに包まれた暗さと、体温と光に温められたその空気は、ひどく居心地よく。
 優しい温度で、疲れも痛みも全て包み込み、癒してくれるよう。
 ―――眠、い。
 とろりと蕩けた意識で。
 胎内のような温もりに包まれながら、押し寄せてくる睡魔はどうして目が覚めたのだろうと思うほどに、強烈。
 眠いのだ。
 どうしようもなく。

「ツナ!」

 子供の声。
 成長したとはいえ未だ幼い、甘えたがりの声。
 この声は、ランボだ。

「ツナ?」

 眠い。

 心の中でごめんと唱えながら、それでも身じろぐ気力はおろか、声すら返すことも億劫。
 本当に、眠い。

「ツナ!?」
「ツナ!ツナツナツナ!?」

 繰り返される。
 呼ぶ声。
 呼ばれる名。

 その、強さ。

 声、の。


 想い、の?


「ツナ!!?」


 ―――ああ。


「む、くろ…」



 その声は、俺が彼を呼ぶ声に、ひどく似ている。





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