朽ちた呪縛



 猫の爪のような細い細い白の三日月が架かる、闇空。
 閑静な住宅街は夜の喧騒とは遠く、光の少ない空には都内とはいえそれなりの星は窺える。群れる人間の多さは頂けないが、さすがに夜ともなるとこの辺りは人通りも皆無に近く、幼い頃、住宅街が形成される前からこの町で暮らす雲雀にとってそれは好ましいと思える風景。
 その夜空を見上げる漆黒の瞳が、ふ、と細まり。
「全く…。僕は便利屋じゃないんだけど?」
 暗闇の中、雲雀は一人、低くごちる。
 一人。
 否。
「ワリーな。最近さすがに数も増えてきて、オレだけじゃ手が回らねーんだ」
 闇の向こうから、高い声が応じる。女性的なそれではなく、明らかに幼さからくる高さ。証拠に、声と共にわずかに見えるシルエットはひどく小さく、立つのもままならないのではと思われるほどに低い頭身の、赤子のそれ。
「でも、質もそれなりに上がってきてるから、退屈はしねーだろ?」
 面白がるような、その揶揄交じりの高い声に、
「馬鹿にしてるの。雑魚ばっかり群れてきてさ。何が、いい仕事を紹介する、だか」
 ひゅぅん、と細く鋭く風を切る音。
 闇の中、一瞬だけ鉄錆びた臭いが濃くなり、そしてそれもすぐに闇と風に紛れて溶ける。
 太刀の血振りのように一度空を切ったトンファーを仕舞い、それから空手になった右手で伸び過ぎの感の漆黒の前髪を掻き上て、
「ねぇ、赤ん坊?」
 呼びかけに混じるのは、愉悦と剣呑、そしてほんの一滴の、不機嫌。
「そりゃ悪かったな。ま、まだ初めて半年も経ってねぇじゃねーか。差はあるだろ。気長に行け」
「その半年の間に来たのが碌でもないのばっかりなんだけど。どうせなら、君と闘いたいな」
 言葉と同時に、一度は仕舞われたはずのトンファーが、いつの間にか再び風を切って、雲雀の足元の小さな影へと向けられ。
「やめとけ。まだ五十年は早ぇぞ」
 キン、と。
 高く軋むように短い音。
 視覚の曖昧な世界の中、手にかかる衝撃に己の仕掛けた攻撃が受け止めるのではなく受け流されたのだと知る。
 それに、端麗な雲雀の横顔が、楽しげな笑みに歪み。
「へぇ?半分になったね。少しは認めてくれてるってことなのかな?」
「ま、うちのダメツナよりゃマシだ」
 幼い影が、肩を竦めるらしいのに、
「ああ。…彼ともまともに闘ったことないな、結局」
 思い起こされる、頼りない風情の、脆弱そのものの少年の姿。
 そして、額と両の手に鮮やかな炎を灯す、圧倒的なまでの存在感を放つ、同じ少年の姿。
 初めて向かい合った時にはそのどちらでもないただ荒々しい気配しかなかったというのに、いつの間にか、背筋を戦慄と歓喜が駆け抜けるような、そんな存在になっていた、不可思議な少年。
 普段は、未だ細く脆弱なままなのだけれど。
 それでも。
「駄目だぞ?」
 けれど高い声は、雲雀が最後まで告げるより先にあっさりと釘を刺してくる。
 闇を透かして見る大きな漆黒の瞳は、底にある感情を見せない分だけひどく物騒。
 それだけ見れば、雲雀の好むものであるのだけれど。
「………本当、つまんない」
 ため息と、拗ねたような不機嫌な響き。
 それはすなわち、青年の興を引くものの少なさを示すのだが。
「にしても、そんな雑魚ばっかりだったか?昨日は、ナイヤがいただろ?」
「誰、それ」
「セルパイヨファミリーの毒蛇・ナイヤ。トップクラスとまではいかねーが、中堅よりはまず上だぞ。刃の付いた鞭を使う女がいただろ?」
 そいつだ、と。
 告げられる台詞に、切れ長の双眸が記憶を辿るように微かに眇められる。
「鞭?……知らないね」
「オイ、」
「冗談でも忘れてるんでもないよ。鞭なんて、どこかの誰かを思い出すような武器を忘れるわけないじゃない。大体、昨日君から流された三組は、全員団体だった」
 だから、違う。
 そう、言い切る声に、
「……昨日お前に回ってんのは、五組のはずだぞ」
 返される、常には平坦な赤子の声が、面白くもない冗談を聞かされたように、渋い。
「…へぇ?」
「間違いねぇよ。ちゃんと死体は上がってんだ」
「……それでもそれは、僕じゃない」

「「じゃあ、誰だ?」」

 重なる、声。
 高い赤子の声と、落ち着いた低さの青年の声。

「…僕が、やろうか?」
 この件の調査を、引き受けてあげようか?と。
 告げられる、不機嫌だった低い声が、微かに熱を帯び始めている。それは危険信号でもあるが、同時に赤子から見れば望むところでもある。
 あるはず、だが。
「……いや、」
 今回は。
 この件、は。
「多分、これは」
 赤子の高い声。
 それに重ねられるように。

「Buonasera!」
 よい夜ですね、と。

 場違いに陽気そうな、けれど落ち着いた艶を持った声が、響いた。


* * *


「よい夜ですね」
 月が見えなくて、静かだ。
 黒にすら沈みきらない、深い闇を抱えた笑み。長槍を地に着いて片手に支えた青年は、闇空を振り仰ぐように屋根の上に立つ二つの影を眺めて嫣然と微笑み、告げる。
 朗らかな挨拶とは裏腹に、空気に満ちる緊張は、重い。
「…元気そーじゃねぇか」
 骸の仰ぐ闇空を背に、佇む二つの影。先に口を開いたのは小さい影―――赤子の方。普段通りの起伏のない平坦で高い声が、呆れるとも探るともつかない口調だ。
「お蔭様で。ああ、クロームたちもお世話になっているようで、感謝しますよ。…尤も、千種と犬は余り嬉しくないようですが」
 仕方ないですねぇ、と。
 呆れるのか、面白がるのか。
 片手に槍を携えたまま、幼いような小首を傾げる仕草がひどく相手を小馬鹿にしているように映るのは、その本質と仕草がそぐわぬせいなのか、それともそこまで意図していることが透けて見えるからなのか。
 何にしろ酷く、挑発的な。
「何の用だ」
 それに、触発されたわけでもないだろうが。
 す、と。
 懐を探る衣擦れの音も安全装置を上げる金属音もなく、ただ気配のみが、赤子の手が言葉と共に骸に銃口を向けたことを教える。
 振り仰ぐ姿が闇に沈もうとも、骸がそれを見逃すはずもなく。それでもその立ち姿は、姿勢良いままわずかにぶれる風もない。
 出会いのせいか、はたまたそれ以外の要因からか、この黒衣の赤ん坊―――リボーンは、他と比べ物にならないほど眼下に佇む六道骸という存在を危険視し、警戒している節がある。
 危険視、警戒―――或いは、嫌悪。
 その気持ちは、現在のところ傍観者の立ち位置を動く気のない雲雀にも、分からないではないが。
 この男は、多分、自他の区別なく笑って命を棄てられる人間だ。望みや信念や、守るべきもの―――そういう、形を持たないない生の核ともいうべきものを、自己の命から切り離してしまえる類の人間だ ―――笑いながら。
 それは酷く似ているようで、自己を自己として確立し、完結させている雲雀やリボーンといった人間とは、確実に、異なる。
 それはもしかしたら、あの子と少し、似ているのかもしれない。
 個という形で完結できる雲雀たちとは異なり、彼らはきっと、周囲―――或いは、世界とも言うべき媒体を介した自己を、きっと知っている。
 あの子供は、無意識に。
 そして今、闇の中で佇む男は、意識的に。
 知っているからこそ、世界を見たいと集う者が、いる。
 それは雲雀が、風紀委員を束ねているのとは似ているようでまるで異なる形だ。
「物騒ですね、アルコバレーノ。折角、掃除も手伝ったというのに」
「やっぱり、テメェかよ」
 笑みを深めて告げる相手に、リボーンがあからさまに嫌そうにため息を吐く。
 それすらも愉しいと言わんばかりに、道路から空を仰ぐ格好で立つ相手は、短くもないその洋藍とも群青ともとれぬ曖昧な色の髪を揺らして、哂って。
 その様子が、癇に障ったというより。
 雲雀はただ単に、自分がこの男をどうしようもなく気に喰わないだけのような気もするのだが。
「オイ、」
「今日は君の相手をする気はないですよ、雲雀恭弥」
 トンファーを取り出そうと、組んでいた腕を解こうとしただけ。殺気も闘気も、表に出したつもりなど欠片もない。
 けれど、それだけ、で。
 どちらからも視線の一つも寄越されなかったというのに、間髪入れずに飛んでくる、二人分の制止の声。
「…他人の獲物横取りしといて、それ?」
「収めろ、ヒバリ」
「別に君の獲物じゃあないでしょう。敢えて言うなら、沢田綱吉の獲物、ではないのですか?」
 君も横取りしているようなもんでしょう、と。
 静かに諫める赤子の言葉を、混ぜ返すような低い笑み声。含み笑いで告げて寄越される、声音に宿る色は紛れもなく揶揄のそれで。
 その言葉に無表情のまま気色ばむ雲雀に、だが挑発した本人はすぐに興味をなくしたようにその姿から視線を外し、リボーンの方へと向き直る。
「まぁ、そんなことはどうでもいいんですよ、今日は」

「アルコバレーノ。任務を下さい」

「…ほぉ?」
 珍しいじゃねーか。
 呼びかけに応じることも少なく、普段は碌に声も寄越さぬ十代目ボンゴレファミリーの霧の守護者。
 その在り方自体は、歴代の『霧』から大きく外れるというわけではないが、それでもこの男の場合は度を越している。それは現在、本人が置かれている状況がどうというより、骸自身の心情に拠るところが大きいのは火を見るよりも明らかであったから、リボーンはこれまで必要以上に骸に何かを求めることも、干渉することもしなかった。
 何より、駒とするには危険性(リスク)が高すぎたのだ。
 骸自身を見ても、―――そして、次期十代目ボンゴレとの関わりを考えても。
 その、骸が。
「…一体、銀貨を何枚もらったんだかな?」
 裏切り。背信。
 イエス・キリストの弟子の一人であったユダは、師の予言通りに三十枚の銀貨でもって彼を売った。ゆえに銀貨は、キリストを売ったユダの行為を―――背信を暗喩する。
 揶揄するような、皮肉るような。
 まるで掌を返すかのような唐突に過ぎる骸の台詞に対し、ユダの背信を引き合いに出したリボーンは、平坦な響きで、その言葉の裏に隠される意図は何だと問い掛ける。
 その、牽制する様子のリボーンの言葉に。
「失礼極まりないですね、先生?あの『肉体』に簡単に死なれては困るのは僕も同じですよ。大体、僕のことを『霧の守護者』だと呼んだのは、君の生徒ですよ?」
 あっさりと返される言葉は、ひどく意味深。
 否定でも肯定でもない、それ。
 普段は感情を覗かせない大きな丸い瞳が、その言葉に剣呑な色を宿すのに気付いて雲雀は軽く首を傾げる。
 何が、というわけでもないが、どこか腑に落ちない感触。
 告げられる言葉は今更で、リボーンが気を立てるほどに目新しい部分など見当たらない。
 けれどそれを探り出す前に、刹那走った苛烈な光は暗い淵に溶けるように、その漆黒の闇の底に息を潜める。
「ツナが、お前を、か?」
「ええ。聞きたければ彼に直接どうぞ?僕には時間が、ないので」
「時間…?」
 脈絡のない骸の言葉に、リボーンの漆黒の双眸が一瞬険を脱ぎ捨てて訝しく眇められ。
「ええ」
 ゆるりと笑みを描いたままの唇で、骸は小さく頷き。
 そして。

「凪、…クローム・髑髏は、もう長くない」

 口調は、皮肉げ。
 しかし、闇に融けていた二色(ふたいろ)の眸が、闇に浮かぶように強い光で、高みを射る。





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