朽ちた呪縛
予兆はあった。
それはきっと、もっと前から。
「……不味い、ですかね……」
呟く響きの緩やかさとは裏腹に、空気に触れる手のひらを、眺める二色(ふたいろ)の瞳は、険しい。
* * *
「っは…、」
並盛の、外れ。
黒曜との町境に程近い路地の一角で、廃墟のような建物の壁に凭れたまま、骸はずるりと地面へと沈みこむ。
丑三つ時。
辺りを包む闇は夏特有の深さと重さでどこまでも暗く、けれど肌を撫でる空気はどこか暑いばかりでない秋の気配。けれど掻き毟りたくなるように息苦しい肺に流れ込む空気はやはり未だ生温く湿り、だというのに胸元の服地を掻き集め握りしめる手のひらは、嘘のような氷さながらの冷ややかさに強張る。
まるで、命の通わぬものの、ように。
「……これも駄目、か」
天上に架かる三日月ばかりが皓皓と白い光を降らせる中、苦しい息で呟く声は、紛れもなく骸の声。けれど、その姿は『六道骸』の容(かたち)をゆるりと揺らがせ始めている。
姿が揺らぎ、ぼやけ、ぶれて。
そして、重なるように現れる姿は『六道骸』とも―――そして、彼の依代である『凪』という名の少女でもない―――男の、姿。
やけに古風な出で立ちと、顔から首、手指の先に至るまでの肌を執念深いように人目に晒さぬよう、城の包帯で覆い隠した様が特徴といえば特徴の、けれどそれ以外の特徴を一切窺わせない姿、の。
「まぁ、上出来、でしょうか…」
はあ、と。
ぶれて重なる姿のまま、喘ぐように開いた口から零れるのは苦しげな吐息。熱っぽいそれは、未だ夏の色濃い夜気に違和感なく混ざって、呟きは自嘲めいた笑いと共に闇に溶ける。
笑みのままに伏せた瞼裏、蘇るのはつい先ほど顔を合わせた青年と赤子。
―――恐らくは、気付かれていない。
思いながら身体から力を抜こうとしたところで。
「六道、骸」
カツリ、と。
生きる者の気配など欠片としてなかった闇の中、唐突に硬く地面を打つのは、高いヒールの音。
無個性で機械的な女性の声が呼ばう名前の唐突さに、けれど地面に座り込んだままの骸は逃げるでも驚くでもなく、伏しがちにしていた面を苦しい息のままに仰向ける。
仰のいた視線の先、予想に違わず佇むしなやかな痩躯に褐色の肌の女性の姿に、薄く、微笑。対する女性の方はと言えば、その目元を黒の仮面(マスク)で覆い隠したままに唇を引き結んでいるため、どのような感情を、表情を、浮かべているのかなど欠片ほども知れないが。
「―――チェルベッロ」
それは、骸の声が可笑しいようにその通り名を紡いだ時も、同様。
変わらぬ表情、変わらぬ空気。
けれどそれこそが可笑しいというように、骸は対峙する相手を小馬鹿にしたような薄笑みを隠すことなく、言葉を重ねる。
「お久し振りですね。こんな所まで出張、ご苦労様です」
皮肉のように告げる挨拶は、どこまでも白々しい響き。
しかし、それも仕方ないだろう、と骸は仰いだ視界に映る女性の姿を観察する。
褐色の肌に、金属的な色味の真っ直ぐの髪は輪郭に沿うように顎の線で短く揃えられている。 肉惑的というには薄く細い肢体はけれどしなやかで、その線を顕わにするように胸元の広く開いたTシャツも、大腿の三分の一ほどしか覆わぬ長さのスリットの入ったスカートも、肌にぴたりと沿うような形。
以前見た女は、肌と髪の色は同じであったが、真っ直ぐな髪は腰の辺りまで無造作に伸ばされ、体格や体の線に沿うような衣服の印象も同じであるが、シャツの形やボトムがスカートでなくショートパンツであったなど、細かな違いを挙げれば切りがないだろう。
それでも、骸は久し振りであると挨拶を向け。
そして、
「ええ。一年振り、といったところでしょうか」
相変わらず好きにしているようですね、と。
女の方も、ごく自然に骸の挨拶を受け入れる。
「それで?何か御用なのでしょう?」
わざわざこんな辺境の国まで訪れるくらいなのですから。
暗に、用事もないのに接触する気はない、と棘を潜めた、けれど声音ばかりは落ち着いた響きで、不遜なまでの艶(あで)やかな笑みで、骸は問うて寄越す。
酷く相手の神経を逆撫でするよう。
わざとか、あるいは最早それが標準装備たいとでも言うように、呆れるほどに馴染んだ態度で告げる座り込んだままの骸に、けれどチェルベッロと呼ばれる女性は相も変らぬ静かな態度と淡々とした口調をいささかも崩すことはなく。
「返事を聞かせて頂きに」
相変わらず機械的な女性の声に、思い起こされるのはもう一年も前になるらしい頃の、出来事。―――それは、チェルベッロと呼びならわされる目の前の女性が、骸に初めて接触してきた日のこと。
そういえば、と思い出せば、あの日も骸は今と同じように古風な黒尽くめの出で立ちと白の包帯で肌という肌を覆った仮初の肉体―――復讐者の内の一人の肉体を殻としていたのだ。
そして、今と同様にその拒絶反応に苦しんでいた。
憑依だけであれば、契約や憑依弾といった手順さえ踏めば拒絶反応など骸には無縁のものだ。しかし、囚われている、という骸の現状においてそれらの手順を踏むのは生半でない苦労を伴うことで。更には、囚われている復讐者の水牢という場も、対象である復讐者という集団も、悪かった。
ぶれる視界に、脳に直接染み込まされているような言葉。
届くざわめきが、耳に届いているのか脳に響いているものかさえ分からぬ不快感。
襲い来る目眩に手近な壁に寄り掛かった、瞬間、
「っ!」
襲い来るのは、目眩とは異なる、現実に引き倒される感覚と、ガチャリと重い音を立てて首元に掛かる不快な重みだ。
「何ヲシテイル」
痛みはない。
けれど感じる衝撃に刹那息を詰め、それからゆるゆると吐き出した吐息のままにゆっくりと持ち上げた視線の先、真っ先に映るのは黒の革靴とズボンの裾。
そのまま、既に意にならぬ上身に舌打ちしながら何とか持ち上げた顔と視線で睨(ね)め上げた先には、予想に違わぬ古風な黒尽くめの衣装と白の包帯で肌を隠した二人の男達。
復讐者。
「何をしている?見て分かりませんか、脱獄、ですよ」
地に這い蹲った姿のまま、けれど何を恐れるでも恥じるでもない不遜な風情で、骸は吐き捨てる。
投げやりともとれるその口調に、けれど復讐者たちは何も感じぬように視線のない視線を向けて。
「ソノ器デ逃ゲ遂セタトコロデ何ニナル」
「ソノ器ハ、我等ノ同胞」
「オ前ノ『器』ハ、我等ノ手ノ裡(ウチ)ニアルママダ」
淡々と告げられる言葉は、一体どちらがどちらを告げているのか。
それすら判然としない、どこまでも個の欠けた声と響き。
その言葉に、出来の悪い映像のように二重にぶれた姿のまま、骸は色違えの瞳を薄く眇める。畳み掛けるような言葉に決して声を返さぬ唇は、わずかに笑みすら浮かんで。
―――けれど。
「尤モ、元々オ前ノモノデハナイカ」
告げられた言葉は。
あからさまに、骸のどこかを、逆撫でする。
「―――死人風情が、何を偉そうに」
地を這う、低い響き。
恨みの念すら窺えない、虚無の色。
飲み込まれそうな強さの声の響きに、けれど真っ向から突き付けられた復讐者達はいささかも揺らぐ様子なく。
「我等ヲ死人ト呼ブナラバ、オ前ダトテ同ジデアロウ?」
―――同胞(ハラカラ) ヨ。
告げられた言葉に。
襲い来るのは酷く不快な激情と、限界を超えた目眩、だけだ。
次に意識を取り戻したのは、水牢の内。
当然と言えば当然で、けれど何の変化も強化もされぬ縛めにいささか興を削がれるのも、事実。
最上級の監獄は、それ以上何の手の入れようもないのだとしても。
「…馬鹿らしい」
呟く言葉は、水泡(みなわ)に紛れて音にはならない。
ましてや返る答えもない。
ないはず、であったのに。
「―――けれど我々にとっては、ひどく興味深い」
あるはずのないいらえは、けれどその中身とは裏腹に幾許もの感情の色さえ窺わせぬ淡々とした機械的なもの、だ。
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