朽ちた呪縛
その日はひどく、夢見が悪かったのだ。
未だ固く蕾を閉ざしたままの桜とは裏腹に、窓の外には名残のように積もりようもないだろう淡い雪が風に舞い煽られていて。纏わりつくように、絡みつくように、冷たいとも痛いとも、それとも温かいとも知れぬその名残雪のように、体中から離れぬ、夢の残滓。
―――形にならない、それこそに、きっとずっと、苛立っていた。
* * *
「あ、」
高校卒業を間近に控えた日。人通りの多い廊下で誰かと擦れ違う際に上がった高い声に、雲雀は足を止める。
群れる生徒の多さに(とは言え、雲雀の姿を認めた者から皆、それぞれ距離をとって群れていないことをアピールし、或いは一目散に近くの教室へと逃げ込んで人型をした天災が去るのを遣り過ごしたりしているのだが)、いい加減、全員咬み殺してしまおうかと思っていた矢先、それを押し止めるような絶妙のタイミング。
沢田、綱吉。
自由登校となってからもちょくちょく高校に顔を出してはいたが、その少年と会うのは思えば随分、久し振りだ。彼の家庭教師であるという赤子とは、ここ最近しょっちゅう会っているのだが。
会っている、というか、群れへの勧誘。
幾度断りを口にしても、まるで見透かすように皮肉に笑って幾度も足を運んではかけられる誘いの言葉は、相手があの赤ん坊でなければとうに滅茶苦茶に噛み殺してやっているだろうほどには鬱陶しい。
その元凶が、目の前の人物だと思えば、そう愛想よく出来るわけもなくて。―――元々、雲雀の対人交流における愛想などというものの存在の有無は、兎も角。
「…やぁ」
向けられる静かな声は、刺々しいというほどではないが、冷ややか。
思わず声を上げてしまっただけらしい相手は、雲雀の言葉にびくりと肩を跳ねさせながらもそろそろと上目に窺ってくる。
何だかんだと数年来の付き合いとなるが、その容貌の幼さは、余り変わり映えしないよう。未だ細く、脆弱なままの体躯。どこか少女めいた幼さの濃い、柔らかな線の童顔と、まるい瞳の透けるような茶色。
そこに浮かぶ、隠されることもない怯え。
―――それは、半年前の夏の日。差し向かいで対峙した時にも隠されることもなく雲雀の前に晒されていた。
「こ、こんにちわ」
微かにどもるような低くもない声と共に、軽く下げられる頭。それでも完全に下げられることはなく、そろりと上目を向いた瞳が、一時も雲雀から視線を外そうとすることはない。
それは恐怖から来る保身行為に他ならないのだが、向かい合う雲雀以外それに気づくような者などこの場にはなく。ゆえに、傍から見ればその光景は、まるで『親しい先輩後輩』の挨拶の風景のようにも、見える。
それは廊下に残る、他の生徒たちからも、当然。
親しいなどと言う対等性は微塵としてない綱吉と雲雀の交友―――むしろ交友なんて御大層なものは二人の間にまともに築かれていない―――を知らない者達が、その親しげとも見える二人の様子に畏怖と好奇の視線を向けてくる中、
「あ、えっと、それじゃあ」
しかし、挨拶だけで、綱吉は急くようにその場を離れようとする。
それはこのあと用事があるということではなく、他の廊下に残る生徒たちと同じく、一刻も早くこの場から、雲雀の前から逃れたいという思いから来るものだ。
当然、二人の間に『親しい先輩後輩』の交流など欠片もないので。
だが、周囲から見れば綱吉の様子は雲雀の足を止めさせたばかりか、挨拶一つで自ら去り行こうとしている強者というもので。加えて雲雀の方が更に綱吉に声をかけたことで、その誤解は日本海溝よりもなお深く刻まれ続ける。
渦中の二人は、共に与り知らぬことだが。
「うん。…ああ、赤ん坊によろしく言っといて。それと、あの話は断るって」
いい加減、鬱陶しいし。
「は?」
話の見えない綱吉が一瞬恐怖を忘れたように小首を傾げるのに、
「そう言えば、分かるよ」
「あ、はぁ…」
釈然としないような煮え切らない返事に、他に何かあるの?とひどく雄弁な瞳だけで雲雀が問い質せば、ぶんぶんと、大袈裟なまでに左右に首が振られ、
「ないです!分かりましたリボーンに伝えておきます!!」
それじゃあ、失礼します!
言うが早いか、その細い体は結構な速さで雲雀の脇を抜け廊下を駆け抜けていく。
ダメツナ、と呼ばれていた頃から確かに逃げ足だけは速かったように思うが、黒衣の家庭教師のスパルタ教育のおかげでそれは更に磨きがかけられたらしい。
「…あれ?」
違和感。
去っていく背を追うでもなく前を向いたまま、綱吉のいた辺りを眺めて雲雀はその漆黒の瞳をわずかに眇める。
細く脆弱なままの、体躯。(それだけでないことは、もう知っているけれど)
恐怖に引き攣るような、幼い貌。(それは何も、対自分に限ってのことではないけれど)
怯えに潤んだ、薄い色の瞳。(それでも彼は、その眸を逸らさない)
それは、普段と変わりない。
それは―――昔と、変わりない。
変わり、ない?
―――いつ、と?
「ああ、」
ふと符合する、遠くて近い、記憶。
思い当たった答えに、一人納得する。
―――道理で、見覚えがあるわけだ。
細く脆弱な体躯がそれだけではないことも、恐怖や緊張に引き攣る顔も、怯えながらも真っ直ぐに相手を見ることを知っている瞳も、何もここ最近、初めて知ったことではないのだから。
これは何の因果なのか。
暗示、なのか。
答えは夢の残滓の中に。
「ふぅん…」
興と怪訝さの入り混じったような声で、雲雀は小さく呟き。
「やっぱり、受けようかな」
呟きの続きは、赤子の執拗な勧誘に対する回答。
綱吉に持たせた、その伝言の、撤回だ。
--------------------
next or koyubi-top