君に疵を残すのが、この手だけであればいい
月が皓々と、高い。
夜闇に慣れ始めた目にいっそ明るいように映るのは、まるで遺跡のような白茶けた廃墟。
人気がなくともどことはなく猥雑とした目抜き通りの突き当たり、広々と放射状に広がる石畳の敷き詰められた広場は、至る所で雨や潮風に浸食されて欠け剥がれ、ボロボロの地面は旺盛な草木に食い荒らされている。
闘技場というには足りない、浅いすり鉢型の円形広場。
だだっ広いよう、と感じられそうなそこは、けれど半ばを緑と融合されているため、まるで雰囲気のいい公園のような長閑(のどか)な風情で。―――なのに、その場の人気のなさが却って、異様。
ぼう、と浮かび上がるような不気味な人を模ったシルエットがぐるりと周囲を取り囲み、その影に潜むように一人分の人の気配。広場の緑に点在する風化し崩れかけた英雄や処女(おとめ)の石像の一つに身を寄せるようにしながら、綱吉は強い視線で周囲を見渡す。
低い位置にある広場を見下ろすように、半円状に取り囲む石造りの屋敷の石壁。遥か昔、それなりに裕福な者達が暮らしていたのだろうと思わせるその建物は、けれど今は半ば以上崩壊しかけ、廃墟と呼ぶより遺跡と呼ぶに相応しい。
百年、二百年では足りない―――恐らくは、それ以上の。
「―――草食動物」
屋敷に取り囲まれない半円の反対側、綱吉が下りてきた方、大通りに続く階段の上から声。
月が眩しい。せいぜい一メートル足らずを仰ぎながら、綱吉は闇に慣れた瞳をほんの少し細くして思う。
目に映るのは夜空と皓月、それを背に負う細身の青年。
影すらも潔いその立ち姿に、ほう、と無意識に感嘆の吐息を零して。
「沢田綱吉です。―――ヒバリさん」
「なに?バイクなら置く場所なさそうだったしその辺に突っ込んどいたよ。どうせ僕のじゃないしね。…で、どうなの?」
―――無視ですか。
律儀に返した訂正を丸ごと無視されて、綱吉は近付いてくる相手をわずかなばかり恨めしく見る。三段ばかりの崩れかけの階段を丁寧に下りて、縁を辿るようにして円周の四半分ほどを進めば、すぐに綱吉の傍。
荒さのない流れるような静かな動きは、まるで猫のよう。月の光を含んで、濡れたように光る鋭い眸も含めて。
「どう、って…えーと…。……ここで、間違ってはないんじゃないかなーとは思います?」
怯え、とはどこか違う感情に、跳ね上がる語尾。隣に立った雲雀は、それにどこか拗ねたようにも見える幼い仕草で眉間を寄せて。
「…あのね。当然だよ。これで間違ってたら、とりあえずまず、君を咬み殺すから」
「……勘弁してください……」
淡々とした声音の中、確かに潜む本気の響きに綱吉は本気で竦む。
その様子に、はあと大きくため息をついた雲雀は、不機嫌に問いを補足する。
「動き。それと、大体の目星」
「あ、えと。多分あの左から二軒目、の…ほら、石壁に何が彫ってある、あの屋敷だと思います。隣との、石壁の崩れてる所から中庭みたいなところ突っ切れると思うんです。動きは、今のところないみたいです、けど…」
「何?」
言葉は多分に迷いながら、けれど真っ直ぐに指された先、特に目を引くとも思えない廃墟の中の一棟を闇の中に透かし見ながら、雲雀は事務的に途切れた綱吉の言葉の先を促す。そうすれば、綱吉はひどく落ち着かないように建物と、そして自らの足元を何度も見やって。
「―――…下、も。何かあるみたいです。…下も、っていうか、下、に?」
「へぇ?」
気のせいかも、しれないですけど。
続けられる綱吉の言葉に、雲雀の唇の両端がそれは綺麗に吊り上がって。
「君の 気のせい は当たるみたいだからね。何せ、ボンゴレ本部から、多分 と 思う と疑問符だらけのナビゲーションでここまで辿り着けたんだし」
くす、と。揶揄そのものの雲雀の台詞。
けれど、その漆黒の双眸ばかりがひどく剣呑な愉悦に煌めいていて、綱吉は笑い返すこともできず小さくその眉間を寄せた。
「軽く四桁近くいってそうだよね、年代」
月明かりに照らされた廃墟の中庭、雨やら風やら苔やらで表面を食い荒らされた屋敷の石壁を一瞥して、雲雀は少しだけ面白そうに嘲笑う。
崩壊して高さの低くなった石壁を飛び越えて、向かった先はどうやら屋敷の裏手、だったらしい。剥き出しの地面のままの土間を抜け、崩壊しきって夜空の見える廊下を渡り、その間、横目に幾つもの崩れて半ば土砂に埋もれたような部屋を探る。
人けは、ない。
「そんなの、分かるんですか?」
こてん、と首を傾がせて、綱吉はやや後ろを歩く雲雀を振り返る。
ちなみに雲雀の前なんて申し訳ないわ恐れ多いわで歩けない、と告げた綱吉の訴えは、誰がナビするの、と顎をしゃくった雲雀に先を差されてあえなく却下される。
「詳しいことなんて知らないけど、たかが百年二百年で石の建物はここまでボロボロにならないだろうし、あそこまで森に呑み込まれることもないと思うだけ」
ちょっとは頭使いなよ、と。
厭味でもなく、ごく自然に言われてしまえば。
「あー…なるほど?」
口をつくのは納得とも疑問ともつかない言葉だけ、だ。
その、単純なまでに思考放棄している綱吉の様に、呆れと腹立ち交じりに雲雀はその跳ね放題の茶色髪の後頭部を軽く叩き、いたい!と叫ぶのを気に留めることなく一点を見つめる。
闇の先、歩みの先。
「それで?向かってるのはあそこで―――いいの?」
くい、と尖った顎でぞんざいに示されるのは、崩れた廊下の更に先。突き当たる位置に庭に張り出すようにしてある離れのような小さな建物。
「はい。―――分かります?」
軽く痛みを堪えるように眉を顰めながら、飴色の瞳が真っ直ぐに振り返ってくるのに雲雀は小さく口の端を持ち上げて。
「まあね。建物自体は上手く誤魔化してあるけど…。やるなら周囲まできっちり手を入れるべきだね」
それとも、目印、かな。
心底愉しいように漆黒の双眸を閃かせ、揶揄のような雲雀の台詞。
雲雀自身、どう思っているのか判じ切れないその言葉を肯定も否定もできず、綱吉は生温く微笑んで視線を彷徨わせるに留める。
笑うしかない。
雲雀のそれは、もはや観察眼のレベルを超えて、いっそ野生の勘じみている。
獲物を嗅ぎ付ける、野生の勘。というか、超直感でもあるのではないのだろうか。
彷徨わせた視線の先、何とはなしに吸い寄せられるようにその離れを眺めて、綱吉は洒落にもならないことをふと思う。
『何とはなしに』目に付いた、その離れ。
崩れて屋根も壁も半ば以上その意味を失い、大部分が呑まれるように草木に埋もれながらも、何故か付き纏う違和感。
その正体。
一本だけ混ざりこむ、見慣れない、種類を異にする木。
何、と聞かれても答えられないが、その枝振りや葉の形が周囲にあるどの木とも異なる。そして下生えが、何かに踏まれたように倒れているのが、近付いて分かる。
しゃがみ込んで触れたその土は、まだ柔らかく、湿り気を帯びて。
まるでつい今し方、誰かがその上を歩いたばかりの、ような。
その様子を見下ろして、ぽろりと呟くのは綱吉の声。
「つい最近、人が出入りしたってこと、ですよね」
「だろうね」
「…ところでヒバリさん。千種さんたちはボンゴレの監視下のはず、ですよね…?」
ふと。
本当に、ふと、脳裏を掠めた予感に、綱吉の背筋をひやりと何かが滑り落ちる。
それは超直感の賜物か、はたまた不安の産物か。
判断がつかないからこそ、否定も肯定も完全にはできない。
柿本千種と城島犬、そして凪。
骸にのみ忠実であるあの三人は、現在、凪は治療中、千種と犬は保護という名目の下、ボンゴレの監視下にあると綱吉は聞いている。
それが、彼らの主である六道骸からの要請である、ことも。
「さあね。ただ、ボンゴレ本部は僕が侵入する以前に、もう随分と騒がしかったよ」
皮肉でもなくあっさりと。
でなきゃ、いくらなんでもあそこまで簡単なわけがない、と。
怜悧な美貌を研ぎ澄まされた剃刀のように鋭く薄く、そして限りなく美しく笑ませて、そんな言葉を首筋に突きつけるように試してくる相手に、綱吉は頭を抱えたくなる。
どうしてこうも、問題ばかりが増えるのか。
状況と、千種の情報収集能力、犬の嗅覚。
それら全てが、指向性を持って一つの予感に収束する感覚。
これは果たして、ボンゴレの血のなせる業なのか、それとも優秀な家庭教師の教育の賜物なのか。
「うぅ…」
潮風が、剥き出しの首筋に少し寒い。
やはりもう、秋なのだ。
―――往々にして、現実逃避の思考に脈絡などありはしない。
「ちょっと。ボケてないで早く行くよ」
ぐ、とパーカーの後ろ襟を掴んで引き摺られ、うぐぅ、と綱吉の喉の奥で奇妙にくぐもった声が漏れる。
首が絞まる。気道を圧迫されて、普通に苦しい。
「ぃっ、ヒ、バリさっ…ちょ、くるし、」
「安心しなよ。僕は作れる貸しはいくらでも貸し付けてあげるよ。君にはね」
情報操作は、僕も得意なんだよ、と。
それは綺麗に笑みを閃かせた雲雀に、一体何に安堵すればいいのかなんて全く分からないまま綱吉は取り敢えず窒息の危機から逃れるために、分かりましたと告げて、足を動かす。
後が怖いのは事実だが、出会ってからこれまで、綱吉は雲雀の実力を疑うことはおろか、疑うことを考えることすらなかったのだ。
中学時代から続くそれは、まるで刷り込みの崇拝。
裏切られたことがないからこそ、それは余計にいや増して。
「…階段、か何か、下に降りられるものがあると思うんですけど…」
首根っこを掴んでいた手を外され、がらんとした部屋の内を歩く。
大きめの机と空っぽの書棚がある他、草木に浸食されている内部。荒れ放題で、なのにどこか寂寥感が付き纏う。
「ここ、かな」
響きいい、雲雀の声。
反対側を見回していた綱吉が、え?と振り返るのと。
ガッ!と重いような痛いような鈍い音が五月蝿く響くのとが、ほぼ同時。
振り向いたまま呆然と立ち尽くす綱吉の視界を、しばらく朦々たる土煙が白く埋め尽くして。
「当たり、だね」
床の一部をいつの間にか取り出したトンファーの一撃で思い切りよく粉砕して。破壊された床石の下、あるはずの地面の代わりにぽかりと口を開く暗闇に、にぃ、と獰猛な獣の笑みを浮かべる相手に。
「……当たり、ですね……」
数拍呆然とした綱吉は、何とかそれだけを返した。
穴から覗く地下はただ闇が広がるばかりで、階段はおろか梯子の類も見受けられず。分かるのは、かなりの広さとそれなりの高さがある、というくらいか。
ちなみにその辺の石の欠片を落としてみると、地面にぶつかる音がするまでに三、四秒。
しかも、遠い。
どうしたものか、と悩むところで。
「炎、使わないの」
恐々と穴を覗き込むように縁に座り込んでいた綱吉の横で、すらりと立ち上がった相手が不思議そうに首を傾げてみせる。
闇に溶けるようなその姿は、けれどしなやかで確固たる。紛れもなく、違えようもなく変わりようもなく『雲雀恭弥』だ。
「―――使いません」
その姿をしっかり見上げて、綱吉の声はきっぱりと響く。
曇りなく澄んだ声は、もうひどく遠いようなつい数週間前の綱吉の、イタリアに渡ることを告げたあの声にどこか、重なる。
「ここにいるのは、オレでしか、沢田綱吉でしか、ないんです。ここにいるのはオレのワガママで、ボンゴレは手段であって目的じゃない、から」
取り留めないように、けれどしっかりと紡がれる言葉。
けれどまだ、核心が足りない言葉。
「怖い?」
音もなく笑う、漆黒に縁取られた美貌。見惚れるほどに綺麗なのに、容赦ととれるものは欠片としてない、その言葉。
「……どうしてそう、容赦なしなんですか…ヒバリさん……」
「何で容赦しなきゃならないのさ」
容赦するなら、何もしないのと同じじゃない、と。嗤う雲雀の言葉は、ひどく雲雀らしい。
「…怖い、ですよ。怖いです。死ぬ気モードになってる時は、いつも、どこか自分が遠くなるから。あれは確かに沢田綱吉の一部なんだろうけど、…『オレ』、じゃ、ない」
掛けられて然るべきはずのリミッター。
封じられ眠ったままであるはずだったボンゴレの血。
それらが表に出るということは、沢田綱吉であっても、あるべき沢田綱吉ではないのだ。
あるべき―――もしくは、望む。
「それだけ?」
「え?」
「怖いのは、本当にそれ、だけ?」
告げられた言葉は静かで。
けれど訳も知れない波紋をひどく騒がしく綱吉の胸の内へと広げる。
数瞬だけ、鋭い漆黒の瞳と呆然と瞠られた飴色の瞳がぶつかり、反応なく鏡のようにただまろい瞳が自分を映しているだけなのを知ると、もう見る価値もないというように、雲雀は早々に視線を綱吉から目の前に開いた穴へと戻して。
「ま、逃げに走らなかったのは、評価してあげる」
肩を竦めて、自己完結。らしいといえばらしい、それでも褒め言葉に類するものなど初めてこの人の口から聞いたんじゃないか、と呆然とする綱吉の横。
ふわり、風が動いて。
「行くよ」
一声掛けて、何の躊躇もなく深い闇のみの続く竪穴に飛び込んだ。
* * *
「何をそんなに、」
怒ってるの?
見透かすような声の続きは、風に紛れて音を無くす。
けれど真っ直ぐ、届く言葉。
「…怒ってる、訳じゃないです」
「ふぅん?」
「ただ、嫌なだけです。悔しい、だけ」
走り抜ける暗闇の中。
苦鳴を聞いて。
血の臭いを嗅いで。
絶叫を聞いて。
肉の焦げる臭いを嗅いで。
嬌声を聞いて。
精の臭いを嗅いで。
狂声を聞いて。
聖油の臭いを嗅いで。
「まるで、イタリアン・マフィアの縮図だ」
笑い飛ばす綺麗で獰猛で孤高な青年を、綱吉は見返す余裕なく唇を噛み締める。
せり上がる嘔吐感。
覚悟を笑い飛ばすように、胃の中が引っ繰り返るような感覚。
「手段、って君は言ったよね」
低く響く、心地好いテノール。
走り抜けるのに揺らがず真っ直ぐに通る声は、まるで雲雀そのもののよう。
「それなら、余さず知ることだよ。使いこなせない武器には何の意味もない。そしてもう引き返せないのなら、喰うか喰われるか、呑むか呑まれるか、」
或いは、
「別の道を、引き寄せるか」
にぃ、と。
性質悪く笑う青年に、一体どこまで見透かされているのだろうか、と綱吉は居心地悪く思う。
一瞬、ひどく無防備に茫然として見せた綱吉に、傍(はた)で見てる方が分かることもあるんだよ、と、本当にどこまでも見透かすような声までかけられて。
「覚えておきなよ。人間は弱いから群れるけど、強くなるために群れるわけじゃ、ない。ただ自分を守るための、一番単純で分かりやすい方法だから、群れるだけだ」
そしてそれは、犠牲を前提とした方法論。
「人間はどこかの羊飼いじゃないからね。一匹の羊のために九十九匹の羊を置いて探したりしない。九十九匹を生かすために、一匹を生贄にできる動物だ。―――君もよく、知ってるんじゃないのかい?」
引き合いに出される、それは、つい先ほど聞いたような気のする言葉。
思って首を捻れば、耳に蘇るしわがれた声。ヴァチカンから招かれたという、白い服の司教だか何だかと紹介された好々爺然とした老人が、意味不明のアルファベットの並んだ分厚い本を手に、ルカだかイカだか言いながら、語った要領を得ない物語。
同じような物語を、幾つも幾つも突貫で語られた中で、それでも印象に残っているのは、聞き終えた綱吉に対して背後に控えていたリボーンが、テメェは羊じゃなくて羊飼いだからな、とまるで何か、念を押すように告げて寄越したからだ。
漆黒の瞳が、ひたりと、逃げることを許さぬかのような強さで。
まるで弾劾のよう、と感じたのは、自身の心に疾しい部分があったからなのだろうか。
「知ってます。分かって、ます―――けど、」
「だけど、決めてしまったから」
絞り出すように返された綱吉の声に、満足げに鋭い双眸が細まり。
覚悟は疾うに、決まっているのだ。
あの日。
自らが追い落とした元・十代目ドン・ボンゴレ候補が訪ねてきて、誘惑の蛇のように甘い言葉を吐き出していった日から、ずっと。
駆け下りる先が、そろそろ目的地であり、終着点。
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