ずっと前から決めていたことだったよ
いらない、など。
血を吐くような思いで心が叫んでいたとしても、口に出すことなんてできるわけもなくて。
いらない。
そんな、もの。
そんな感情も情動も同情も願いも行為も。
本当に、いらない。
何も。
この身一つ、この生一つ、あれば。
それだけで生きていけるに。
それだけで、生きてきた、のに。
あの男だとて、それを知らないはずはない。
血筋に宿るあの力は、人の心の機微にこそ、その力を最大限に発揮する。
だというのに。
『骸様……?』
(本当に本当に、要らないのだ)
(繰り返す反駁の言葉こそがあ、あまりに強くそれを意識しているのだとしても)
(それを、分かってはいて、も)
甘い少女の声が、小さく呼びかけるのに答える余裕すらも、今は、ない。
(―――そも、どこからどこまでが『ホンモノ』なのかも分からぬ、身)
* * *
「クローム」
訥々とした声に呼び止められ、少女は振り返る。背後には、目深くニット帽を被った眼鏡をかけた青年。
「千種」
見知った相手に、髑髏は同じように訥々と返す。特に真似たわけでもなく、二人とも出会った当初からそうであるだけだ。
「何の話?」
「……イタリアに、行くって、」
前置きも断りもなく、聞きたいことだけを訊ねてきた千種に、髑髏もわずかな逡巡を見せながらも淡々と答えを返す。
今日の召集。
大空の名を以って、初めて呼び出された、その場所で。表情の抜け落ちた透明な眼差しで、守護者たちを真っ直ぐ見つめながら告げられた、少年の声。
―――秋になったらイタリアへ渡る。
集まった五人に、ありがとうだとかすみませんだとか色々と、いつもと変わらないような挨拶をして。
それから、一度瞳を伏せて。
そして再び表れた眼差しの透明さのままの声音で一言、そう告げた、少女の守護すべき少年。
告げただけで、後はなく。
それだけです、と。
小さな苦笑と共に、皆を帰した。
何を問うことも求めることも、強いることも、なく。
だからこそそれは、宣言というよりも絶対の命のようにすら、感じられた。
「…行くのか」
記憶を辿る髑髏の耳に、ぽつりと、問いなのか諦めなのか分からないような千種の声。目を上げて硝子越しの瞳を見れば、普段通り奥の読めない暗い色で。
それを真っ直ぐに見返せば、猫背とはいえ長身の相手だから、背の低い髑髏の顔はかなり仰向かざるを得ないのだが、それを苦とする風もなく潔い風情で髑髏の瞳は千種のそれを映す。
「行くよ。私は、ボスの守護者だから。でも…」
千種と犬のことは、分からない。
そう、濁す言葉の先は、告げられない。
千種が絶対の主と仰ぐ青年の、依代(よりしろ)となっている幼げな少女は、それゆえに主とその記憶を共有している節があった。全て、ではないだろうが千種と犬の過去を垣間見しているようなのも事実で。
それが今、千種の中で確信に変わる。
千種たちの渡伊を、明らかに躊躇うようなその口振り。
イタリアは、彼らが―――主が、千種が、犬が、迫害を受け獄を脱し、逃れてきた地、だ。
「骸様は?」
無表情の中に常にはない複雑な感情の色を押し込めた髑髏を無感情に眺めながら、千種はそう返す。
感傷も感情も、自らの意思すら彼には関わりないものなのだ。
ただ、主のために。
あの地獄のような日々を破壊し、自分たちを外界へと導いてくれた、あの救い主のためだけに。
それは経緯の差こそあれ、目の前の少女も同じことではあるだろうが。
「……分からない」
その少女からようやく返されたのは、絞り出すような声。
「え?」
「答えて、くれないの。…イタリアへ行く話も、知っているのかどうか…」
「それはまた、骸様がどこか別の場所へ意識を飛ばしてるってこと?」
「……違う。答えて、くれない…だけ」
きゅう、と。
胸元の服地を、小さな手で縋るように握り締めながら。
「…今までこんなこと、なかったのに」
呟く。
あまい声に滲むのは、不安と焦燥。
「むくろさま」
あまい声が、まるで密やかな祈りのように、絶対主の名を呼ばう。
伏せた瞳。
頬に落ちる睫毛の影と敬虔とすら言える一途な表情が、まるで本当に祈りを捧げる殉教者のようで。
祈る少女と。
物思うようにそれを眺める青年。
暗い廃屋の中、異質の風景を形作る二人の姿は、外に出ていた犬が戻ってくるまで、変わらずに影の中で佇んで、いた。
秘めやか、に。
ぽこり、と。
泡沫。
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