ずっと前から決めていたことだったよ
はらり はらり
はらはら と
くずれ おちる
ふりつもる
はすの はなびらの ざんぞう が
キエ ナ イ
* * *
眩しい視界に映った人物に、思わず眉間に皺を寄せることも忘れて茫然としてしまったのは、きっとひどく驚いたから。
その後、間を置かず襲ってくるひどい違和感の理由も、自分の口から思わず零れた名前を考えれば当たり前のことだと感じられる。
感じられる、のに。
このどうしようもないまでの違和感の理由は、何。
「ろくどう、むくろ…、?」
ことり。
幼い仕草で首を傾げて、幼い声が名前を呼ぶ。
どこか、不思議そうに。
どこか、怯えたように。
どこか、願うよう、に。
辺りはまだまだ、夏の気配色濃い。西の空には未だ強い、夏めいた光の太陽。
呆然と瞠られた色素の薄い大きな瞳に光が入って、甘い鼈甲飴のように柔らかに黄金(きん)に透ける。その瞳に、直にこの舌を這わせて舐め上げたなら、きっと蕩けるように甘いのだろうと、綱吉に対峙する相手の胸を過るのは、どこか倒錯した感覚。
勿論、綱吉の知るところではないが。
「…骸、だろ…?」
再度。高さを残す少年の声で、綱吉はどこか恐怖に震えながらも必死に見据えた先に声をかける。恐怖、というより、おぞましさ、と表す方がより真実に近いだろうか。
緩慢に続く、住宅街の内を走る一本の道。その、途中。
視線の先には、綱吉と同世代とは思えぬほどの幼げな少女。幼げで、でもどこか蠱惑的な。
それはもう、よくよく見知ったはずの少女。
細く、けれどまろやかな女性の曲線を描く肢体に、淡くピンクがかって見える薄い枯葉色のワンピースを柔らかに纏い、オフホワイトの薄手のボレロを羽織った見慣れない、少女らしい姿。風に揺れるスカートの淡い色も、露わな肩を薄雪のように覆うボレロのレースも、夏めいた形なのに纏う風情は限りなく秋めいた。
夏の形に秋の彩(いろ)。異なるもの同士を掛け合わせた。
それはひどく、不思議で、不安定な姿。
それは、何も、纏う衣服のせいばかりでなく。
その魂の、存在の、奇妙さというだけでも、なく。
再度にわたる呼び掛けに浮かぶ、幼げな貌の艶やかな笑みに、際立つ、違和感。
甘やかに整った面に、浮かぶ笑みは花のよう。
甘い毒の滴る、華の。
「久しぶりですね、沢田綱吉」
(ああ、ようやくあえた)
―――果たしてそれは、どちらの呟きか。
「―――なんで…」
乗用車が二台、何とか擦れ違えるほどの広くもない道幅の道路。
ほとんど車通りのない道は、当然のように今も車の排気音一つ窺えず、ぽろりと零れ落ちるように漏れたその声が、沈黙をさらに際立たせるよう。
「なんで…」
再度、零れる音。
車通りの少ない道の中央辺りで進行方向を向いたまま立ち尽くす綱吉に相対する少女は、問いの響きに気付かぬ様子で、彼とは対照的にゆっくりと開いたままの距離を埋めるように綱吉に近付いてくる。
視界の中、徐々にその大きさを増していく少女を見つめたままの綱吉は、呆然とただ、三度その唇を同じ形に動かし。
「…なん、で……」
まるで壊れた蓄音器のように、零れる言葉は先から変わらず。そして、小さく、囁くように紡がれた問いは、少し掠れて情けない響きを宿す。
鼈甲飴の瞳に映されるのは、あまいあまい容(かたち)の少女。
あまく淡いミルクティの色合いのワンピースと、あまく透ける砂糖菓子のような白のボレロ。
蜜の滴りそうに、あまく微笑む。
ただあまく。
あまく、微笑むだけ。
けれど、綱吉の眉間はあまりの違和感に頭痛を堪えるようにいささか顰められ、―――そして。
「…何でわざわざ、クロームの姿…?」
そして、続けられる、問いの後半。
至極嫌そうに続けた綱吉に、目の前の少女の容(かたち)をした『もの』は、くふり、と更に笑みを濃くする。
至極、愉しそうに。
「たまには、この娘(こ)にもお洒落をさせて上げようかと思いまして」
可愛らしいでしょう?と。
嬉しそうな愉しそうな、確かに愛らしい笑みで微笑まれても、確かに身に纏うものが少女らしく可愛らしい姿でも、中身が透け見えてしまうその微笑みと言動のせいで、綱吉は全く素直に頷けない。
見た目が可愛らしいのは認める。
更に、少女らしい服装が可愛らしさを引き立ててことも認める。ふわりと小首を傾げる様など、男なら十人が十人とも振り返って見惚れてしまうだろうほどには、愛らしい。
だが、しかし。
しかし、だ。
「いやいやいや、別にお前がする必要ないだろ!?」
ていうか、中身がオマエだってだけで全く一つもこれっぽっちも可愛いなんて言えやしない。
「だってこの娘(こ)は、僕がどれだけ勧めてもちっとも着ようとしてくれないんですよ」
挙句の果てには、制服まで男物着ようとして。
「……多分それは、クロームが正しい。てかオマエのせいだよ気付け今の状況で――――っ!!」
絶叫。
肺の中の空気を全て声に変えて吐き出した綱吉は、肉体的にも精神的にもどうしようもない疲れを覚えながら、肩を上下させて荒い呼吸を繰り返す。
しかし、怒鳴られた当の相手はと見れば、愛らしい少女の顔でくふふ、と独特の笑みを更に深めるばかりで。
「懐かしいですねぇ、君の絶叫も。この娘には怒鳴らないようですし」
「クロームに怒鳴れるわけないだろ。てかクロームは怒鳴られるようなことしないし!」
「おや、君のタイプは笹川京子だと思っていましたが?」
「…っ!そおゆう問題じゃなくて!女の子怒鳴るわけないだろ!」
「おやおや、次期ボンゴレは顔に似合わずフェミニストだったんですねー」
「何それ顔に似合わずって!?何でさり気に馬鹿にされてんのオレ!?てか本当、何しに来たんだアンタ――――っ!!」
二度目の絶叫。
閑静な住宅街に響き渡った声の余韻が消え去る頃には、再び肩で息を吐く綱吉と、変わらず変わらぬ笑みを浮かべる愛らしい少女。
けれど、その笑みの性質が。
わずかに、変わり。
「夏が、終わるでしょう?」
愛らしい微笑みが愛らしい声が愛らしい姿、が。告げたはずだというのに、飴色の瞳が映したのは紛れもなく美しい姿の青年の、不思議に皮肉な、それでも綺麗な笑み、で。
驚きに一度その瞳を瞠り、ぱちりと瞬いた後には紛れもなく、あまく愛らしい少女の微笑み。見慣れない、笑み。
双眸。
笑みしならせた、その少女の双眸が。いつもは厳めしい眼帯で覆われる、失われていると聞いていたその右眼が。
漸く、露にされていることに気付く。
その右眼の帯びる色彩は、血を凝らせたような、紅。
す、と。
何かを辿るように細められた双眸が、空を辿り宙を辿り綱吉の向こうに広がる、狭い都会の空を、映す。
「空の色が、変わってきている。もうすぐ空気も変わってくる」
あまく微笑ませた少女の瞳が、どこか虚ろ。
託宣を告げるように讃美歌を唄うように零れるあまい声が、やはりどこか、虚ろ。
突如変わった相手の、否、相手と自分、二人を包む雰囲気についていけず、綱吉は歌劇(オペラ)を見る観客のように、ただ呆然と目の前の少女の姿を見つめる。
そんな綱吉に気付いたわけではないだろうが、虚ろだったまろい瞳がふと、光を灯して現実を見るよう。
結ばれた焦点は、色素の薄い双眸。
益々強さを増しゆく晩夏の残光に、いよいよ鮮やかな黄金に透ける。
鼈甲飴の光彩(イロ)の。
綱吉の。
双眸。
ただ、真っ直ぐに。
射るような激しさもなくひたりと見据えられた少女の瞳が、ほんのわずか皮肉に笑み。
唇が、笑みを模りながら、紡ぐ。
「もう夏が、終わるでしょう?」
ああ、
秋が来たら、君は十八ですねぇ。
それは、奇妙に渦巻き、波紋を広げる響きで、綱吉の鼓膜を震わせて―――、
「……そう、だよ」
十八だ。
少女の声で発せられた骸の台詞に、綱吉の雰囲気がすいと、唐突に変わる。
仮面でも、着けたかのように。
否、或いは。
外した、のか。
色素の薄い幼げだった相貌が、研がれて冴え、愛らしいというよりも綺麗と呼べるようなものへと。甘い鼈甲飴の色をした瞳が、わずかに眇められ、強く怜悧な印象に。
幼さを色濃く残していた、無性的な高くも低くもない声が硬く凍え。
凍えた声が、冷たく、続ける。
「誕生日が来れば、オレは晴れて十八歳だ」
だけど、骸。
「それが、何?」
冷ややかな、問い掛け。
否、それは問い掛け、などという対等性のあるものではなく。
審問。
命令。
それはさながら、神の玉座から下される断罪の宣告、最後の審判のようですら、ある。
けれど。物理的な力や冷気すら伴うような、その言葉に、
「さあ?僕はただ、事実を述べたのみです」
動じることないその言葉は、正しく少女姿の中身が『六道骸』たる証だろう。
くつり、と。
愛らしい顔が、似合わぬ微笑を、一つ。
それを睨むように、怜悧な琥珀の瞳が、対する色違えの瞳を強く見据える。その、緩く弧を描く、掴み所のない笑み。
「骸。お前、何を、」
知っている?
訊ねる声は突然の、強い風に散らされる。
風の向こうには、変わらぬ笑み。
「むく、」
「『戴冠式』が、あるそうですね?」
変わらぬ笑みが、告げたのは。
風が吹く。
熱を孕んだ湿ったそれは、ちっとも秋めいた風情なんてもたらさないけれど、それでもやはり、真夏の灼けるような苛烈さは少しずつ失われていて。
掴んだ砂が、指の間から零れていくように。膝を抱えている時間が、抱き締めた腕の中からすり抜けていくように。
気付けば、そこから失われている。
失われるのは、刻(とき)、だ。
『沢田綱吉』として生きられる。
そして。
彼と彼女が、生きられる。
「お前、どこで、それ。」
驚愕に見開かれた瞳が、琥珀から飴色へ。
怜悧さを脱ぎ落とした相貌は、幼いまでに純粋な驚きの色に染められていて。
「どこでだって、構わないでしょう。情報なんて、どうしたって洩れるんですよ」
だからそんなこと、どうだっていい。
言い切り、言下に綱吉の問いを切って捨てる様は、いっそ鮮やかなまでの傲慢さ。
あまやかに幼い少女所の容姿を裏切る。
「それより答えて貰いましょうか?」
「君は何をするつもりだ?沢田綱吉」
問いの言葉はひどく綺麗に空気を震わせ。
裏腹に、二色の瞳。
その右眼の紅が毒々しいまでの鮮やかさ。
睨むというにも毒の強いその瞳から逃れるように、向き合う飴色の双眸が伏せられ。どこか透けるような白さと薄さを思わせる目蓋の下、けれど甘やかな鼈甲飴の色味は当然透けることなどなく。
存在感の強いその色が隠されたことで、いや増す澄んだ気配と色味のなさ。それらをそのまま映し込んだかのような、無色の声が告げるのは。
「秋になったら、イタリアへ渡る」
色も重さも温度も匂いも。
気配さえも抜け落ちているかのようなその台詞は、けれど、吹き抜ける風の流れにも満ちる空気の熱にも、紛れ散ることなく。
告げた、後。
骸の言葉、或いは瞳に、伏せられていた双眸を、対する相手が焦れるほどの緩慢さで再び綱吉は開く。
薄い目蓋の下から現れたのは、柔らかな曲線の飴色の瞳。
「それだけ、だよ」
―――秋になったらイタリアへ渡る。
言って、笑み。
凍えた空気が一瞬で融け落ちたかのように、怜悧な表情は一変する。まるで、疲れたかのように、力が抜け落ちる。
小さな笑みは、初めて出会った頃から変わらない、どこか困ったような色。幼い、とも、優しい、とも。何とも形容し難いその笑みの、その脆弱さが、今の骸をひどく苛立たせる。
それでなくとも、気が立っているのだ。
「ハッ!」
吐き捨てるような笑みを返した骸に、綱吉の大きな瞳が緩く困惑に揺れる。
けれどその瞳に、怯えの色はなく。
「では質問を変えましょうか?何故この秋に、イタリアへ?『戴冠式』が行われるという、この秋に?」
『戴冠式』―――ドン・ボンゴレの襲名式を秋に控えて浮き立つ、あの根深い闇を抱える国に?
鮮やかな西陽を背に負って、少女の笑みは徐々に影へと融けていく。
あまやかな笑みは、徐々にその甘さと熱を失って、ただ石に刻まれた仮面彫像のそれへと移っていく。
見えぬ相手の表情に、目を灼く最後の陽光に、けれど視線を逸らす様子を欠片ほども見せずに琥珀めいた瞳は二色(ふたいろ)の瞳を柔らかに受け止め。
「決まってるよ。……オレが、十代目になるんだから」
当然、だろ?
零れる。
零れる、言の葉。
淀みなく綴られる自身の台詞に、綱吉本人こそが微かに驚いたように瞳を見開く。
対する骸の方はといえば、ひどく苦々しげな渋面。
苦々しげで、どこ酷く―――苦しげ、な。
「…何故、今」
「なぜ、って言われても…」
骸の問いの意図を図れずに、綱吉はその眉間を怪訝に寄せる。
その困惑の様子すら苛立たしいというように、色違えの双眸が薄く眇められながら、押し殺したような骸の言葉が淡々と言葉を重ねる。
「春まで待てば、君は高校を卒業する」
「いや、まあ、そりゃ、……多分」
微かに視線が泳ぎかけるのは、惨々たる自分の試験の得点や成績表に連なる数字が脳裏を掠めたせいだ。ついでに言えば、まさに今日の放課後、つまりは一時間も遡らない頃、担任教師より直々に進路指導室への招待に与り、卒業後の進路どころか卒業そのものについて延々切々と説教を受けてきたところである。
当然、骸の知ったことではないだろうが。
その証に、泳ぎかけた視線を再び少女のそれに合わせれば、淡々と、変わらぬ風情で綱吉を映し。
起伏のないソプラノが、続ける。
「動くなら、変わり目の方がいい。人の目も記憶も、その方が欺きやすい。……君の記録も記憶も何も、消していくのでしょう?」
骸が紡ぐ内容は、綱吉にとって言葉でしか、台詞でしかなく、全くもってそれがどういうことなのか、現実味を伴って思い描くことはできない。
そう。
淡々と、告げられる。
内容に。
現実味は、ない。
―――けれど。
「……リボーンと、同じこと言うんですね……」
ぽつり、と。
どこか感心するような、それでいて泣きそうな声で、綱吉が呟く。
その言葉に、今度こそ骸が目を見開く番で。
「アルコバレーノが、ではないのですか…?」
この時期を選んだのは、わざわざこの中途半端な時期を時機としたのは、あの周到なる最兇の、黒衣の死神ではない、と?
「あれ?何を考えてるって、骸さん、オレの名前呼ん、で、………え?」
驚きに目を見開く骸が伝染したかのように、綱吉の瞳も大きく瞠られ。見開いた瞳はすぐに落ち着きなく空を辿り、両の手が無意味に忙しく少女を指したり自らの口許を覆ったりと、分かりやすいまでに挙動不審を体現する。
その姿に逆に冷静さを取り戻した骸は、まろい少女の瞳に冷めた色を浮かべて、挙動不審な少年を眺めて、一言。
「君に聞くんだから、君の名前を呼ぶのは当然でしょう」
何かおかしなことでも?と。
白々しく続ける骸に、
「……っ、あああ―――――!!何それ紛らわしいっ!!ナシナシナシっ!!今の全部なしっ!!!」
忘れて全部!!
綱吉はそう、無茶なことを言う。
「君じゃないんですからそんな簡単に忘れられませんよ。生憎と、僕の脳は優秀なんです」
君と違って。
冷静な、というより冷ややかな骸の返答。
それに髪を掻き毟りたくなる衝動に襲われ、そしてその衝動に逆らわずに頭を抱えた綱吉は、半泣きで絶叫する。
―――もう、叫ぶしかない。
「二回も繰り返す必要ないじゃん!どーせオレは馬鹿だよ!骸なんて前世とか覚えてるくらいだもんなそりゃ記憶力いいよな!!」
「……正確には、前世というより冥界を廻った記憶、ですが。……というわけで、」
「吐け」
形だけの甘やかな笑みで、少女のソプラノがにこやかに命じる。
不似合いで、不釣合いで、けれど限りなく調和した。
「む、骸サン?コトバ、乱れてマスよ?」
にこり、と。
対抗するように幼さの濃い顔に引き攣った笑みを浮かべて、綱吉もじりじりと後退りながら必死で言葉を返す。
返す、が。
ダ 、 ンッ !!!
閑静な住宅街。
その中を走る道路の内の、一本。
その脇に連なる塀の、一つ。
鈍い音を立てたのは、塀に叩き付けられた少年の体と、唐突に現れた三叉の矛先を持つ、長槍の穂先。
「ボス?」
にっこり、と。
真正面からその背を塀に押さえ付けられた形の綱吉をわずかに低い位置から見上げて、花咲くように愛らしい微笑みを浮かべたあまやかな容貌の少女が。
少女らしい唇で、少女らしい声音で、紡いだ。
その、聞き慣れているはずの言葉、に。
「スミマセンゴメンナサイ早く骸を助けようと思ってっ!!!」
―――流れる冷や汗のままあっさりと、綱吉は白旗を揚げた。
そして。
その台詞に一度見開かれた大きな二色(ふたいろ)は、
次の瞬間には、枯れて、凍え。
「馬鹿げてますね」
それとも、馬鹿にしているんですか?
鈍く残照を受ける三叉の穂先が、不吉に血色の光を弾き。首筋に宛がわれた槍の穂先が、更に冷ややかにその対象との距離を縮める。
強く綱吉を睨み据える双眸の二色(ふたいろ)は、陰鬱で、憎憎しげで、免疫のあるはずの綱吉ですら眺めているだけで気分が悪くなってくる。
愛情と表裏をなさない、純粋なだけ混沌とした憎悪。
対象をすら既に持たないようなその闇は、すでに感情ではなくて、きっと虚無にこそ近い。
最早、感情に依ることない。
それは綱吉には想像すらつかない境地。
居た堪れなくて、そして本能的な逃避衝動が、綱吉の首を項垂れさせる。
それに更に苛立ちを強めた骸が、本当に細く白いその首筋を穂先で切り裂いてしまおうかと細い腕に力を入れ直した、その瞬間。
「……そんな…つもりじゃ、ないよ……」
細い声が、絞り出すよう、に。
告げた言葉に少女の眉間がピクリと波打つ。
不快、不可思議、それから。
言葉と共に上がった少年の面が、ひどく透明な色で少女を見つめ、
「そんなつもりじゃ、ないけど……、で、も。骸は、…骸も、いまは霧の守護者、だよ」
そしてまた、ゆっくりと項垂れる。
そして、沈黙。
街路の喧騒すらない住宅街の内では、沈黙はすなわち、静寂を引き連れて。
ただ夕闇の内に最後の光を溢す、太陽の。その光の中。
穏やかといえば穏やかなはずの。
けれど何か、獰猛な獣が息を潜めたような、静寂。
そし、て。
「ふ、ざけるな!」
獣は、吼える。
あまやかな声音で。
「マフィアと馴れ合うなんて、冗談じゃない…っ!!」
咆哮。
或いは。
慟哭。
ぴくん、と。
怯えたように、少年の薄い肩が跳ねる。
けれど。
再び上げられた面に浮かぶのは。
それは柔らかな笑みではない。
作り損ねた粘土細工のようにいびつにひしゃげた、ゆうるりと細い笑みの形の瞳に宿るのは、折れそうに痛い、決意の色。
「いいよ、それで。今までだって、信じられないくらいいっぱいいっぱい助けてもらったよ、オレ」
だから、いいよ。
それで、いいよ。
「今まで、ありがとう」
細い首筋のすぐ傍、薄皮一枚の隙間もなく突き立てられた三叉槍の穂先にも怯む様子を見せることなく、泣きそうに眉間を寄せた顔で、それでも少年は咲(わら)った。
それは、別れの言葉。
そんな、別れの言葉。
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