花 名 ― F l o w e r   N a m e ―



 高校一年の冬

 交通事故で突然両親を失ったオレは
 ボロボロの心のまま親戚中を盥回しにされて
 最終的には
 父の遠縁だという人ののところへ押し付けられた。

 彼は、直木賞だかの賞をとった、作家で。

 初対面のその人は
 まるで物か何かを見るような無機質なガラス玉の眼をして
 オレを、見ていて。


「雲雀恭弥。―――よろしく」


 低く響く綺麗なはずのその声は
 まるで奈落の落とし穴に向けて放られたかのように
 全くに心に響かぬ声
 だった。




     --*--*--*-- 花の名前 --*--*--*--




 ―――あの日から、二年―――。

 それを、やっと、と表せばいいのか、もう、と表せばいいのかすら分からないままに、流れた日々。
 それは、優しいばかりでも、温かなばかりでもない日々だったのは、確か、で。
 けれど。

「―――おはよう、」

 しんしんと、冷たく張り詰めた空気に滲むように染みる冬の陽光の下、少年は呟くように、小さく告げる。
 朝一番、告げる相手は人ではなく、目の前に広がる広々とした庭を埋め尽くす緑と茶色。
 庭に植えた、今まだ遠い春を待って耐え忍ぶ、冬の装いの木々や花。
 いや、百花咲き乱れる春にも、苛烈な陽光に緑輝く夏にも、鮮やかに花も葉も色づく秋にも、少年が朝一番に挨拶を告げる相手は、変わらない。
 それは、いつしか当たり前の毎日に組み込まれた、当たり前の日課で。
 改めて気付かぬほどに唇に馴染んだ、いとおしいとさえ言える、日常。
 それを、いとおしい、と想えるだけ積み重ねた年月は、優しいばかりでも温かなばかりでもない代わりに、辛いばかりでも、冷えゆくばかりでもなかったと、いう証。
 ふわ、と温かな薄茶の瞳を笑みに緩めて挨拶をした後、目に付く辺りの緑を摘み取っていく。
 きれいに、きれいに。
 植えたわけではない、その、名も知らない草を取り除いて、狭くもない庭園を整えていく作業は、人によっては苦行と言うかもしれないけれど、慣れた少年にとっては土に草に、触れられる分だけ楽しいとも言える作業で。
 それに。
「こーゆーのが、小春日和、っていうんだよなぁ…」
 ここしばらく行なう必要もなかったその作業が、肌には感じられない春めいた空気を感じさせて、どこか浮き足立つような心地。
 冬の最中、ぽん、と天から投げ渡されたかのような。
 正しいその言葉の意味を知ったのは、この家で暮らすようになってからの、小春日和。
 巡り来る、この季節をこの場所で感じるのは、これで三度目。
 つまりはもう、丸二年が、経つということ。
 春待ちの、凍て付く寒さに向かいゆく頃に、この家に来て、から―――。
「綱吉」
 ぴん、と。
 冬の、張り詰めた弓弦のように凛と凍えた空気を、澄んだ破璃で弾いたように、綺麗に響く。
 低く響き良い声が、呼ぶ、名前。
 その瞬間が、たまらなく、嬉しいのだということを、気付いたのは、いつだっただろう。
 意識せずとも緩む頬と目元のまま、振り返るのはこの寒い最中にも、雪見障子を開け放したままの縁側の向こうの、座敷間。
 空気を入れ替えるためにその障子を開けたのは確かに自分だけれど、寒い中、わざわざ閉めるのが面倒だったという理由だとしても、障子戸を閉ざすことなく、その場所に、その人がいることが、たまらなく嬉しい。
 庭の全景が臨める、その場所、に。
「はい」
 零れる笑みのまま振り返り、呼ばれた名前に、ゆっくりと答えを返す。
 和服姿のその人は、書見台に立てかけた書物から、目を離すことはないまま、だけれど。
「…朝食」
 短い沈黙の後の、たった単語ひとつ。
 真っ直ぐに、紛れもなく、少年に―――綱吉に、向けられた言葉紡ぐ、声。
 それだけ、で。
「いま、行きます」
 ―――それだけ、で、嬉しくなれることを、きっとその人は、知らない。


     --*--*--*--*--*--*--*--


 初めてこの家に訪れた日のことを、実は綱吉はあまりよく覚えてはいない。
 真冬だというのに妙に暖かな日和の或る日、気付けば、着続けの制服のままの、今思えばよれよれだったろう姿で、見知らぬ家の、玄関の土間に立ち尽くしていて。
 そのすぐ目の前、上がり框から下りることなく佇むその人の顔の位置は、綱吉にとっては高すぎて、着流しの袖からのぞく白いけれど大人の男の筋肉のついた腕が、気難しげに、威圧を通り越して拒絶でもするかのように組まれていたことばかりが、ぼんやりと残っている、印象。
 それから、よろしく、と告げた、ひどく心に響かぬ声。
 よろしく、などと告げておきながら、全くに綱吉を顧みる風情なく、くるり、返された素足の踵(きびす)。
 雲雀恭弥、と名乗ったその人は、そんな、薄ぼんやりとした第一印象を残すのみ、であった。
 そして、そんなうすぼけた第一印象すら裏切らぬ、そのまま、の人物、でも。
 とても偏屈で、寡黙で、自己主義で、人使いが荒くて。
 とてもとても、怖い人。
 ―――そして、同じ位に、綺麗な、ヒト。
 濡れたようなつややかな黒髪も、それに縁取られた作り物のような白皙の美貌も、洗練された舞でも見ているかのような、ふとした動作すら無駄のない、綺麗な挙措も、現実味のないほどに、綺麗で。
 何より、切れ長に吊った、闇を溶かし込んだかのような純粋な黒のガラス玉の瞳は、与える印象が苛烈に過ぎて、畏怖にも似た恐怖のあまり、綱吉など初めの頃はまともに見ることすら、できなかったほど。
 けれど。
 朝餉の湯気立つ卓袱台の、対面。
 凛と、背筋正しく座り、綺麗な所作で箸を口元に運ぶのは、出会った頃と変わらぬ、どこか現実味のない美貌。
 ちら、と。
 向かい合わせに坐る雲雀を、盗み見るように眼だけを動かした綱吉の視線に、気付いたわけもないだろうに。
「…担当の草壁が胃潰瘍で倒れてね。今日の夕方、新しい担当が挨拶に来る」
 ぽつり。
 それは一体会話なのか独り言なのかと戸惑うほどの、唐突で、ぶつ切りの、言葉。
 けれどもそれは、紛れもなく、綱吉へと向けられた言葉。
「はい」
 にこりと笑顔のまま返した返事が、今朝の食卓の唯一の会話になるだろうことが当たり前に分かってしまうようになったのも、いつの間にか。
 そもそも、言葉を交わす会話があることすら、週に何度か、といった程度なのだ。
 ―――ことば、でない会話(やりとり)ならば、いつもいつも、繰り返されている、けれど。
 すい、と。
 前触れも言葉もなく湯呑みに伸びてそれを掴む手の動きに、自然、自身の傍ら、畳の上に置かれた盆から急須を取り上げて、湯呑みが目の前に差し出される頃には温かいお茶を注ぐことも。
 御浸しに箸を向けながら伸ばされた左手に、訊ねることなく遅れることなく醤油を差し出すことも。
 全て、言葉のない会話。
 言葉の要らない、会話。
 触れ合う熱も音もないけれど、それは確実に綱吉のうちに降り積もるのだ。
 いつの間にか、言葉の要らない会話にも、沈黙の支配する食卓にも、剛く揺らぐことない偏屈さにも、荒い人使いにも、現実味のない美貌にも。
 畏怖、にも似た、恐怖に、も。
 慣れて。
 降り積もるものが、いつの間にか、当たり前に、なってしまって。
 それは繰り返す日々に、雲雀の家に置いてもらう代わりの炊事や洗濯、掃除といった家事仕事にしても、日課から趣味へと移って言った庭いじりにしても、同じ。
 そして、無口な雲雀に、どうすれば少しでも、喜んでもらえるかと考えるようになった、ことも。
 炊事や洗濯、掃除や、趣味へと移った庭いじり。
 そんな、日常を構成する全ての動作の中で、どうすれば雲雀は喜んでくれるかを、気付けば考えている自分がいる。
 少ない言葉を汲み取って、少しでも役立てないかと。
 そうすることでしか、自身の存在価値を築けない、というのも確かに理由の一端ではある、けれど。

 ただ、喜んでくれれば、嬉しい。
 ほのかに唇を吊り上げるほんの小さな笑みを、目にするだけで、嬉しい。

 それだけは、見失いようもないほど、確か。





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