花 名 ― F l o w e r N a m e ―
―――蜜柑、より、林檎、だよなあ…。
高校からの帰り道、路地の角にある小さな八百屋の店先に積まれた二つの果物を眺めながら、綱吉は口の中だけでそう呟く。
脂っこいものはあまり好きでなくて、あっさりしたものが好き。
中華や洋食より、断然和食派。
なのに、ハンバーグが好きだったりと、時々妙に、子供っぽい。
けれど、お菓子の類の甘味はあまり好きではなくて。
でも、瑞々しい果物は、好んで口にしたりする。
そして、果物に関していえば、酸味の強い柑橘類よりも、林檎や桃や、苺なんかの甘みの強いものの方が、好きらしい。
それが、この二年、雲雀と暮らしていく中で綱吉が知り得た、雲雀自身の食の好みの全て。
何を出しても美味いとも不味いとも言われず、況して自分から好き嫌いの話をするような相手ではなかったから、二年かけて綱吉が見つけられた情報なんて高が知れていて。
それでも、知り得た全てが、綱吉にとっては雲雀を喜ばせるためになくてはならない、大事な宝物。
「…この時期なら、蜜もたくさん入ってるよね」
ポツリ、呟いて。
やたらと威勢のいい八百屋の主に未だ慣れないまま、重たいビニル袋を下げて帰路につく。
その足取りがいつもより、ほんの少しだけ軽いのは、やはり袋の中、鮮やかな赤色に輝く果物を、差し出したときの反応が、楽しみだから。
食事の後、何も言わずに果物に手を伸ばす時、ほんのわずか、ほっとしたように、嬉しそうに、鋭い目元が和むから。
それが、嬉しい。
淡々と過ぎていくような、静かで、それでいて満ち足りた日常を、ほんのりと色付かせるやわらかな空気を思うと。
それだけで、嬉しい。
「帰りましたー…」
からり。
古風な玄関の、木の引き戸を開けて。
帰宅の挨拶と共に足を踏み入れた純和風の日本家屋は、昨日までと変わらず、冬の空気をはらんで冷たく、静か、で―――。
「出てけ!」
「っ!?」
玄関からの挨拶に返るはずのない、声。
当然いらえなど期待していなかったが、だからといってびりびりと空気を震わすような声がこうもタイミングよく聞こえてくれば、びくり、と思わず身が竦む。
それは、よく知る声の、聞いたこともないような、激昂。
一瞬、誰の声かすら、分からなかったほどの。
「…ヒバリ、さん…?」
どさりと、重い音を立てて玄関の土間に散らばる買ったばかりの野菜や果物の存在にすら気付かず、呆然と唇が呟くのは、よく知る家の主の名前。
乱暴に空気を震わせたその声は、よく聞けば紛れもなく、雲雀のもので。
直後、がしゃん!と派手に何かが壊れるような音に、もう一度びくりと、全身が震える。
強張った身体のまま、恐る恐る、上がり框に膝を乗せたところで、もう一つ、声。
「やれやれ…。相変わらず、乱暴ですねぇ。物に当たったところで、現実は変わりませんよ?貴方が何と言おうと、決まったことです。僕が新しい担当の―――」
「五月蠅いよ。君が担当?冗談じゃない。君が担当だって言うなら、もう二度と、君の会社では書かない!」
「貴方ね、仮にも社会人になって、何コドモみたいなこと言ってるんですか。何処の小学生のガキですか、君」
「…君こそ、仮にも編集者を名乗るなら、作家に対してそれなりの礼儀は弁えたらどうなの」
「だから、敬語、じゃないですか。それとも仮にも作家先生が、敬語の区別もつかないんですか?」
プロ失格、ですよ?
「敬語の全てが敬意を表するなんて思ってるんなら、君こそ今すぐに、小説の編集者なんか辞めなよ」
間違いなく、向いてない。
喧々囂々。
静かなはずの家の中を満たす言い争いは、どうやら玄関から程近い、応接間の薄い障子の向こうから響いてくるようで。
上がり框に片膝だけかけたまま、恐る恐る首を伸ばすようにして、そちらを覗き込んだ綱吉の、目の前。
「っ!?」
ひゅん、と。
比喩でも言葉の文でもなく、真実に、目の前。
その、正に目の前の空気を切って飛んでいった『何か』のあまりにもな勢いに、悲鳴すらもタイミングを失って、喉の奥に絡む。
辛うじてわずかに引いた顔面に、生々しく残る、屋内にはあるはずのない強い風の、残滓。
どご、と腹の底に響くような重い音に、再度絡んだ悲鳴が喉を圧する。
息詰めたまま、限界まで瞠られた眼で、音のした方向、つまりは『何か』が飛んできたのとは反対の、廊下の壁の方にそろそろと顔を向ければ。
「じ、しょ…?」
しかもハンドサイズではなく、デスク版の、やたらとでかくて分厚い、もの。
「………」
思わず後に続ける言葉を失っていれば、す、と応接間の障子が開いて。
ああ、何でか穴が開いてるな、なんて現実逃避じみた思考に真っ直ぐに飛び込んでくる、先程までよりも随分と明瞭な、知らない声。
「これ流石に、僕でも当たったら死んじゃいますよ?」
「殺すつもりだったんだから、当然だろ」
「成程。では、余程ノーコンなんですねぇ、貴方」
開いた障子の、向こう。
知らない声と同時に見えたのは、ふわりと、冬の空気に冷ややかに馴染む、不可思議な色合い。
「…っ」
しゃら、と。
そう、音がしそうなほどに長くなめらかな、藍色めいて艶めく、黒の髪。
緩やかに空気に舞った、その髪の美しさに、覚えず息を呑む。
夕焼けの後、宵闇に沈みきる一瞬手前の、空の色。
雲雀の、漆黒の闇のような色合いとはまた違う、曖昧さの極地のような、得体の知れない美しさ。
眼を、奪われる。
「…おや」
そのせいで、反応が、遅れる。
頭の上から降ってきたどこか皮肉に響く低い声に、漸く顔を跳ね上げれば、真っ直ぐにかち合うのは、左右で色の違う、瞳。
青と、赤。
―――東雲と、夕焼け。
雲雀とは違う類の造形の美しさよりも、まるで堅気には見えないような装飾品まみれの着崩したスーツ姿よりも、真っ先に眼を引きそうな奇妙な髪型よりも。
時間が止まりそうに眼を奪われた、不可思議な髪色よりも何よりも、その瞳ばかりが、強く強く、印象に、焼きつく。
上がり框に膝を付いたまま、呆けたように口も目も見開いて、その、見知らぬ男を見つめていれば。
「学ランの男子中学生の幻が見えますね…」
頭はぶつけてないはずなんですが。
さて、とでも言うように、造形の美しさや印象の苛烈さとは裏腹の人間味のある仕草で首を傾げ、人差し指で自らの唇をなぞる相手に。
「いえあの…なんてゆーか…高校生ですってゆーか本物ですオレ」
「………」
「………」
「………」
「………」
「…ああ!もしかして、雲雀君の家に居候してるって言う」
難しい顔をして見詰め合うこと、数十秒。
世界一の難問を解いたとでも言いたげな子供みたいな顔をして、ある種無邪気に問いかけてくる男に、こくり、と綱吉が頷けば、成程君があの有名な、などとよく分からない感嘆符。
それから、見惚れそうな綺麗な顔に、極上の笑みを浮かべて。
「予想以上、というより予想外のの可愛らしさですねぇ。男子高生とだけ聞いていたので、もっとむさ苦しいの想像してましたよ」
雲雀君の好みがこんなだとは、予想外でした。
「あ、あの…?」
「ああ、すみません。自己紹介もまだでしたね。初めまして、雲雀君の新しい担当の六道骸といいます。現在フリーの独身、一人暮らしで家族はいないので嫁姑問題も跡継ぎ問題もないですよ」
「………?…沢田、綱吉、です」
はじめ、まして。
大半が意味不明で形成されたような自己紹介に首を傾げながら、それでも綱吉は、何とかそれだけを返すことに成功する。
ツッコミどころ満載の自己紹介をした男の意味不明の度合いは、秘密主義の雲雀以上のもので、こんなものは実はまだほんの序の口だということを綱吉が知るのは、これから、のことでる。
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「いやあ、綱吉くんは料理の天才ですねぇ。本当に美味しいです。あ、お代わり頂けますか?」
「………」
「え、あ、はい!どうぞ…っ!」
いつもは静かな、沈黙ばかりが降り積もるはずの、食卓。
しかし今日、綱吉がここで暮らすようになって以来、出合ったことのない賑やかさを誇っている。
それと同時に、毎日あったはずの平穏も、吹き飛ばされてしまっているが。
その張本人たる六道骸と名乗った見知らぬ男はといえば、やわらかで掴み所ない笑顔のまま当然のような顔をして食卓の席に並びつき、あまつさえお代わりまで所望してのけているところである。
しかし、そんな動作や言葉運びの一つ一つは、全くに品の無さや押し付けがましさを感じさせなくて。
冷ややか、を通り越して凍えそうな怒りの気配を纏っている雲雀や、慣れぬ骸自身にびくびくと居心地悪く夕食に手をつけている綱吉ですら、思わず見惚れ、了承の返事を返してしまう始末だ。
―――まあ、元来流されやすい性質の綱吉が、どう転んだところで断れるはずがなかったと言えば、それまでなのだが。
しかし。
「ねぇ、六道。君、何でここに居るの…?」
びくりと、響いた声に茶碗を受け取った綱吉の手が震える。
ここにきて、とうとう我慢の限界に来たらしい。
徹底して骸を無い物とし、いつも通りに淡々と夕食に箸をつけていた雲雀が、耐えかねたというように声を上げる。
それは、低く地を這うような声。
直接に声をかけられたわけでもない綱吉ですら、訳もなく、とにかくすみません本当ごめんなさい、と土下座して謝りたくなるような威圧と迫力のその台詞に、けれど当の本人はといえば。
「綱吉くんが学ランで可愛かったから、です」
きっぱり。
これ以上の理由など必要ないだろうといわんばかりの、即答。
しかも表情を消し去った雲雀とは対照的の、全開の笑顔で、である。
怖い、などという次元じゃない。
「あっ、…あのー…っ!お二人は一体、どーいったゴカンケイ、ですか…?」
痛いというのも生温い、二人の男の間に流れるそんな空気に耐えかねた綱吉は、何とか場の空気を変えようと、とりあえずのように、当たり障りのない、そして一番気になっていたことを口にする。
語尾が縮んでいくのはご愛嬌、というより、この場では仕方ないだろう。
しかし、本当に、気になってはいたのだ。
新しい担当者が来る、というのは朝食の席で雲雀から聞いていたこと。
だが、六道骸と名乗った、どこか華のある空気と不可思議な美貌を備えたこの男は、どうもそれだけではない雰囲気で、ともすれば、秘密主義で片鱗すらも窺い知れない雲雀の過去にすら、関わっていそうな様子。
好奇心を刺激されるな、というほうが、無理だ。
怯えの色の濃い、けれど逸らされず見つめてくる綱吉の薄茶の瞳に、そんな、恐怖と、ほんの少し、けれど確固たる興味の色が浮かべられてているのを見て取ったのか。
骸は、にこり、と人形めいた丁寧さで、その左右で色の違う瞳を綺麗な弧に細めて。
「僕たちですか?それはもう、あんなことやこんなことや、そんなことまでしてきた仲です。ああ、詳しいことが知りたいんですか?そうですねぇ…」
すい、と。
言いながら、卓袱台を越えるようにして頬へと伸ばされた整った指先。
その、すらりとした、なめらかさすら感じさせる白の指先に思わず見惚れてしまって、それの向かう先など綱吉には考えも付かない。
ただ、麻薬のように脳裏を痺れさせるような響きの声が、続いていくことだけが、確か。
「どうしても、と言うなら、君には特別に、手取り足取りじっくりと教えて差し上げま、」
ゆるりと、伸びる指先。
当然のように避ける余裕のない綱吉の、まだ幼さの残るやわらかな頬に、その指先が今にも触れようとした、瞬間。
「……六道」
低い声。
先までの怒りなど可愛く見えてしまいそうなほどの、絶対零度。
その違いに気付いたのは、呆けていた綱吉だけではなかったらしい。
真っ直ぐに綱吉だけを映していた色違えの瞳が、ちらりと一瞬外されて雲雀の方へと流され、それからにこりと、仕方ないですねぇとばかりに肩を竦めた笑みが、一つ。
ひらり、ホールドアップの姿勢で指の長い手のひらを閃かせて。
「と、言うのは冗談でして。
大学時代の友人です」
「あ、そーなんですか…」
「ええ。大親友というか、雲雀君、僕しか友達いなかったんですよねぇ。可哀相に。だからまあ、喧嘩するほど仲が良いといった感じですね」
「へぇ…。君と、僕が、友人…?…それは初耳…」
にこやかな骸の台詞に綱吉が気を抜いたのも、束の間。
余計な一言、どころか十言くらい余慶を付けないと気が済まないらしい骸のせいで、漸く肩から抜けた力が、再び雲雀からの緊張感でもって、強張ってしまう。
しかし哀しいかな、それを怖いと感じるのは、どうやらこの場では綱吉だけらしく。
「それより雲雀君!貴方、綱吉くんにちゃんと感謝してます?こんなにバランスの取れた食事摂ってる独身男なんて、世界広しと言えどそういませんよ?しかも美味しいですし」
雑穀入りのご飯に、豆腐となめこのお味噌汁。
大皿に彩り良く盛り付けられた海鮮サラダに、鉢物は昨日の残りのおでんと、菠薐草の煮浸し。
それから、大根おろしを添えた鰤の照り焼きと、箸休めの漬物が、二種類。
つい先ほどぶちまけてしまったビニル袋の中身と冷蔵庫の残り物を使って、混乱する頭のまま綱吉が手早く作った夕飯を、まるで自分の手柄のようにひけらかしながら、至極真面目な顔をして告げる骸に、けれど雲雀は今度こそ無視しきるつもりなのか、伏し目がちの無表情のまま。
けれど、当然のように骸は堪える様子なく。
「ああ。そういえば、綱吉君って何歳(いくつ)なんですか?」
にこやかに、オレが女だったら間違いなくオチるんだろうなぁ、と思わせるような完璧な微笑で、骸は綱吉に問いかける。
相も変わらず、賑やか。
思いながら綱吉は、怯えを消しきれないままにそろりと視線一つ向けることない無表情の雲雀を窺い、それから笑みのままじっと見つめてくる骸へと、視線を戻して。
「あ、十八…えと、高三、です」
「高三、ですか。
ちなみに恋人は?」
「こっ…!……いっ、いない、です…」
むしろ恋人いない暦イコール歳の数だ。正直、つっこんで欲しくない話題である。
特に、骸みたいな男には。
「おや、本当ですか?じゃあ、携帯番号聞いても大丈夫ですね」
「え、あ。も、もってないです…っ」
「………ちなみにご趣味は?」
「ええと…園芸、です」
段々と、不穏、というより不審の色を濃くしていく骸の様子に首を捻りながら、けれどそれだけははっきりと、言える。
雲雀に言われて始めて、雲雀のおかげで好きになれた、こと。
好きだと、言えるようになった、こと。
そんな、くすぐったいような誇らかさをもって答えた言葉であったのだが、しかし、骸には違う衝撃を与えたらしく。
「……………雲雀君。君みたいなアナログ引篭もり人間と暮らしてるせいで、ピッチピチの可愛い男子高生(綱吉くん)がすっかり枯れちゃってるじゃないですか!」
長い長い沈黙の後。
何を考えているのかと思えば、やにわに叫ばれた、そんな骸の台詞。
それに、ぶちり、と。
何かの切れる音を、確かに綱吉は聞いた、と思った。
「五月蠅い!咬み殺されたくなければ今すぐ帰りなよ、君!」
がたん!と今にも卓袱台を引っ繰り返しかねない勢いで座布団から立ち上がった雲雀の両手の内には、鈍色に光を弾く物騒な―――トンファー。
いつの間に、どこから、というかそれは何、と恐慌状態をきたす頭で綱吉がぐるぐると目を回しかけているところに。
くふふ、と、含む笑い声が、一つ。
「何だか久々に聞きましたねぇ、その台詞。君に咬み殺されるなら、結構本望ですよ?僕」
僕が君のこと、大好きなの知ってるでしょう?
にっこりと、まるで恋人にでもするかのような甘い笑みと言葉を告げて寄越した骸に、疲れた、と感じるのは恐らく綱吉だけではないだろう。
その証拠に、和装の袂にだろうか、一瞬の内に溶けるように消えうせる、兇器。
そして、その、今にも咬み付かんばかりの獰猛な色をしていた瞳からは、あからさまに色が抜け落ちていて。
「…………寝る」
一言。
告げて、返した踵のまま渋色の和装の背中が開けた襖の向こうに消えて行こうとするのを。
「あっ、ヒ、ヒバリさん!デザート、に、林檎、が…」
「……部屋」
「あ、はい!」
そのまま無視されるかと思った言葉に、返る声があることが、嬉しくて。
だから、綱吉の隣で、先まで芝居がかった蕩けるような微笑を浮かべていた男が、仮面を脱ぎ落としたかのような素顔で、呆気にとられたように二色の双眸を見開いていたことに気付いたのは、洩らされた言葉が耳に入るときになって。
「…すっかり餌付けしちゃってるんですねぇ、君」
「へ?」
思いがけない台詞に、聞き間違いかと思って振り返れば、すぐさまにこやかな笑みで、切り返される。
完璧にも見える、いっそ仮面のような。
けれど、その双眸が、確かに面白がるような光を浮かべているのも、事実。
「本当に、可愛いなぁと思って」
すい、と。
先ほどは届くことのなかった、白の指先。
二人きりとなってしまった今度は、当然のように何の障害もなく、綱吉の頬に触れて、するりと顎先までを、辿って。
「ろ、六道さんっ…!?」
弾かれたように、立ち上がる。
立ち上がったまま、畳に足を滑らせて尻餅を付く綱吉を驚いたように見やって、それから頬を押さえたまま真っ赤になって、続ける言葉を見失っている綱吉の様子に、骸は心底楽しそうに、唇を吊り上げる。
「また、その内お邪魔することになると思うので、これからよろしくお願いしますね、綱吉くん」
ご馳走様でした、なんて。
綱吉の頬に触れるか触れないかの、それでも確かな口接けを落としていった男は、シンメトリーの造形の中、唯一のアシンメトリーを見せる色違えの瞳をゆるりと笑みしならせて、微笑った。
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