たぶん哀しかったんだと思う



「…ボス」
 甘やかな声が呼ぶ。
 振り返った先には、幼げな顔立ちの少女。

「くろー、む?」

 霧の守護者。
 彼らの行動はいつも、突然で、唐突だ。



 帰り着いた家の前。
 いつから待っていたのか全くに分からぬ静かな風情で門前に待っていた少女を、とにかく家に上げて二階の自室に通し、やけに浮かれる母親の追及をかわしながら宥めすかして茶の準備をしてもらい、それを自室まで運んで、ようやく現在に至る。
 母親に勝手にされる部屋の掃除を、これほど感謝したのは初めてかもしれない。
 思いながら、綱吉は床の上にぺたりと直に座る髑髏に慌てて座布団を勧め、そこでようやく一つ息を吐く。訳が分からないなりに状況把握を放棄した脳が、とりあえずやることはやったとばかりに身体ごと一旦緊張を解いたのだ。
 こんな時に、間が良いのか悪いのか赤子姿の家庭教師は姿がなく。(というよりも、ここ最近あの赤子はどこをほっつき歩いているのか家に居つかない)
 実質、異性と二人きり、といって差し支えない状況であるが、髑髏に限って、綱吉はあまりその手の緊張はしないのでまだ気は楽だ。
 それは異性としての意識が薄いとからいうわけでもなく、仲間という意識が強過ぎるからというわけでもなく。
 否、どちらも、あるにはあるのだが。
 髑髏があまりに六道骸と似ているから―――似せようとしているから、というのが最たる理由だろう。
 綱吉にとって、六道骸と、目の前の少女、クローム・髑髏を分けて考えるということは、長い間ずっと、ひどく、難しいことで。
「…え、っと」
 テーブルを挟んで、向かい合い。
 互いに茶にも手をつけず、目を合わせるような合わせないような微妙な緊張感で数分が経っている。まるで、お見合いのような。その居心地の悪い空気は、緊張感に弱い綱吉にはいい加減限界だ。
「何の用か、聞いても、いい?」
 貼り付けたような、情けない笑み。
 それでも何とか笑顔と呼べるもので問いかけた綱吉に。
「…話、したくて」
 ぽつり、と雫のように落ちた高い響きは。
 毀(こわ)れそうに、脆かった。



「…えっと。それは、オレでいいの?」
 リボーンとか、じゃなくて?
 ―――話、したくて。
 必死に紡いだ髑髏の言葉に、まず真っ先に帰ってきた台詞が、これ。
 男らしい、というよりは、母親似らしい彼の顔は申し訳ないがどちらかといえば女性的だ。その顔の中の色の薄い大きな瞳を軽く見開き、それから細い眉を情けなく歪めて。
 それでもその飴色の瞳は、どこか必死だ。
「ボスが、いい」
 ボスじゃなきゃ、意味がない。
 続ける言葉は、胸の内へ。
 それでも、片方だけの瞳を真っ直ぐに向ければ、勘の良い相手は声にされない言葉を聞いたようにまた一つ、大きく瞳を見開いて、それから真面目な、それでいてどこか柔らかな表情で。
「そっか」
 うん、とどこか幼く頷く。その仕草に髑髏も小さく頷き返し、ほっと一つ、息を吐く。
 気づかぬ内に、緊張していたらしい。
 強張っていた肢体から、心地良く力が抜ける感覚。こうして力を抜いていられる相手は、骸と、この目の前の相手くらいだ。
 敵は勿論、他の守護者も、千種や犬も、髑髏にとってはどこか安心しきることはできないのが、未だ現状。
 ―――それはこの二度目の生を、与えられる前をも含め。
 彼らを信頼していないわけではない。積み上げてきたものを軽んじているわけでも。
 それでも、安心とはどこか異なる。
 骸や綱吉に対して気を張らずにすむのは、信頼や忠誠心からというよりも、曝け出せない胸の内をも全て見透かされ、受け入れられてしまっているという思いが、強いからだろう。
 それは、甘え、なのかも知れないけれど。
 思いながら、一つ、呼吸。
 そして。
「…ボスは」
 漸くに口を開く。
「うん?」
「イタリアに、行くのね?」
「そうだね」
「私も、行っていいのね?」
「……クロームがそれで、いいなら」
「…うん」

「じゃあ、行くね」
 私、も。

 告げれば、少し困ったような、申し訳ないような、そんな瞳で見返される。
 それはずっとずっと、見慣れた表情。初めて会ったときから、髑髏に対し、綱吉がずっと浮かべている、表情。
 だけど彼は。
 綱吉は。
 髑髏には、やめろと言うことは、ない。
 その理由もきっと、自分は、―――知って、いる。
「……あの、ね」
「うん」
「千種と犬は」
「……」
「…千種と、犬は」
 行くの?
 行っても、いいの?
 …行かせる、つもりなの?
 問いたい言葉が頭の中を巡って、けれどどれも違う気がして、続ける言葉が、途切れる。
 イタリア、へ。
 あの、彼らにとっては悪夢でしかないあの国へ。
 悪夢―――違う。
 紛れもなくあれは、残酷な『現実』、で。
「あの、さ」
 続ける言葉を失った髑髏に、目の前の相手がおずおずといった調子で、声をかける。
 上げた瞳に、澄んだ飴色。
「クロームはオレを、ボスって呼ぶよね?だから、おかしくなるんだ」
「…?」
 言われる言葉の意味が、分からず。ぼんやりと見上げた飴色に、柔らかな笑みの気配。
「オレは、オレでしかないよ。…沢田綱吉でしか、ないんだ」
「確かにオレがイタリアへ渡る、って言うのは、…ボンゴレファミリーを継ぐ、ってことでもあるけど。それ以上に、オレがイタリアでやらなきゃいけないことがあるから、行くんだ」
「そのために、行くんだ」
「だから、誰かが一緒に来てくれればそれは嬉しいし、心強いけれど、それ以上の意味は、ないよ」
 紡がれる言葉、は。
 耳に心地良い響きで、紡がれるその言葉は、どこか。

 ―――どこ、か。

「…ねぇ、クローム」
「オレは、骸じゃないよ」


 それはどこか、拒絶に似ている。


「骸様、は」
「え?」
「骸様は、このこと、知ってる?」
「クローム?」
「イタリアへ、渡ること」
「、?」
「ボスが、あの国へ、行くこと、っ」

「…くろー。む?」

 呆気にとられた。
 正しくそんな表情でこちらを見返す綱吉に、なおも髑髏は必死に言葉を重ねる。

「…しってる、の?」

 答えが返る、証もないのに。

「…どういう、こと?」
「骸様、は」
「クローム、あの、落ち着いて?…骸は、話してないの?」


「、え?」


 ―――時間が止まる、心地。
 答え。
 求めていた形とは違うけれど、それはきっと、答えに限りなく近い。或いは、求める答え、以上の。
 綱吉から返ってきた思いがけない問いに、髑髏は思わず腰を浮かせて相手に詰め寄る。
「昨日…クロームたちに集まってもらうより前に。オレは骸と、話してる。この家の近くで、今日の髑髏みたいに、骸の方が俺を待ってた。…その時に、話したんだ。イタリア行きのことも、含めて。だから」
 あの時、クロームは、もう知っているのかと思ってた。
 そう、紡がれる言葉は、どれも初めて知ることばかりで。
「…しら、ない」
 零れる言葉に宿る、絶望の片鱗を載せた響き。
 それは果たして、綱吉か、骸か、自分か、いずれに向けられたものだろう。
「…クロームは、骸と話せないの?」
 それは積年の疑問のようで、けれど恐る恐るというよりは、ふと零れる幼子の疑問のような調子。
「……基本的に、会話とかは、できないの。ただ、骸様が聞いてくれてるから、答えてくれるから、会話はできる」
「…?ご、ごめん。もっかいお願い」
 綱吉の重ねる言葉にも嫌な表情一つ浮かべることなく、けれど少しだけ悩むような間を置いて、少女の声は続ける。
「基本的に、私は骸様に干渉することはできないから。一方的、なの。骸様が答えてくれる時だけ、会話ができる。…骸様は、多分、違うと思う」
 私が考えてることとか、分かるんだと思う。
 告げれば。
 分かったような分からないような、曖昧な表情で相槌を打ち、それから軽く、小首を傾げる風。
「……ごめん。多分、よく分かってないんだけど、じゃあ今、クロームは、骸とは話できてないってこと?」
「…うん」
 告げるのには、それは、多少勇気のいる言葉、だったけれど。
「…そっか」
 ぽん、と。
 呆気なく返された声は、呆れでも落胆でもなく、どちらかといえば、安堵に近い、ような。そのことに、不穏を感じるより先に、訪れるのは綱吉のそれが伝染したかのような、安堵。
「―――お茶、冷めちゃったね。新しいの、貰ってくるよ」
 ふと変わる、声の調子。どこか現実味の薄かった声が、ふと、ありふれた日常に引き戻されたような。
 ちょっと、待ってて、と。
 言って、湯呑みだけを盆に載せて、立ち上がる。
 立ち上がって、踵を返し。
 背を、向ける。

 この話は、これで終わりというように。

「、ボス」
 必死な。
 それは、髑髏自身にしてみれば、限りなく必死な、呼びかけ。
 それがどれほど、声に表れたかは、別として。
 けれど。
「え?なに、クローム?」
 呼べば、振り返ってくれる。
 優しい色を持つ人。
 それはあの頃と、出会った頃と、変わらない。
 どこも変わらない、優しく澄んだ、飴色の。
「ボスは、骸様を助けに行くの?」
「……」
「イタリアへ行くのは、そのためなの?」

「…うん」

 どこか困ったような、申し訳ないような、情けない表情。
 それはずっとずっと、見慣れた。
 初めて会ったときから、髑髏に対して、綱吉がずっと浮かべている、表情。
「…うん。骸を、今度は俺が、助ける番だと思うから」
 返される答えは、けれどまだ、髑髏の疑問の、半分にも満たない。
「……ボス、は」
 本当に聞きたいことは。
 いつも、いつだって。
 本当は。

「ボスは、骸様のこと、どう思ってるの…?」

 告げた、言葉に。
 返されたのは。
 ひと時の沈黙と、柔らかに伏せられた、薄く白い瞼だけ。
 それだけ、かと。
 思って。
 それだけでは、足りなくて。
「ボス……?」
 呼べば、振り返ってくれる。
 その飴色の瞳を、向けてくれる。
 優しい色の、人。
 それは本当に、あの頃と、変わらない。
 変わらないのだけれど。
「―――オレは、さ」
 少女のように高くはないけれど、さりとて男性らしい低さとは程遠い、耳に優しい声。
 初めて顔を合わせた頃は、いつもどこか困ったような色を残していた表情が、今はひどく清んで、研ぎ澄まされて、それはとても綺麗なのだけれど。
 何だかそれは、ひどく。
「色々、思うことがあったよ。骸には。怖いとか、申し訳ないとか、許せないとか、何でだろうとか、嬉しい、だとか、色々思って、だけどさ」
 だけど、さ。
 続けながら、小さく小首を傾げて微笑う。
 その表情が、姿が、本当に、本当に、綺麗なのだけれど。

「―――たぶん、骸が、」
「ずっと、かなしかった、んだ」

 かなしい、



 お茶、代えてくるね。
 そう言って。綱吉の、去った後。
 色濃く生活の匂いのする、温かな空気の部屋。
 優しく、居心地のいい。
 その部屋の内、一人残された髑髏の目の前には、静かに閉ざされた扉と、可愛らしく盛られたクッキーや焼き菓子の山。それらにぼんやりと、向けるともない視線を向けていた髑髏であったが、やがて片眼だけ露わなその大きな黒の瞳を伏せ、静かに言葉を紡ぐ。
 呼びかける。
「ねぇ、骸様」
 呼びかけても、最近は答えてくれなくなった、絶対の主。
 それでも、応えないのでも応えられないのでもなく、答えないだけだと、『私』には分かる。

「私も、かなしい、よ」

 命を、時間を、存在ごと与えてくれた人。
 その意味、すらも。
 絶対主。
 その人の命も時間も存在も歩んできた道筋も定めも。
 ―――会えないことも。
 そんなに暗く、冷たい所に捕らわれていることも、何もかも当たり前すぎて、ただ、どうしようもなかった。
 どうしようもないと、思ってしまっていた。
 けれど、ねぇ。
 この感情を教えてくれた人が、かなしいと。
 この感情を教えてくれた人も、かなしいと。

「……ボス、が、教えてくれたの」

『うれしい』を、教えてくれたのは、骸だった。
 『たのしい』を、教えてくれたのは、千種と犬だった。
 そして。
 『かなしい』を、教えてくれたのは。

 かなしい、と。
 それは知らなかった、感情(ココロ)の名前。

「かなしい、わ」

 これはきっと、私だけのこころ。
 ―――綱吉と共有できる、唯一。

 同じ頃、扉の向こう。



「むくろ」
 扉に背を預け。
 ずるりとへたり込むように、床に沈みこむ。
 両手に持った盆を取り落とすことも、湯呑みの茶を溢すこともなかったのは、ダメツナたる自分にとっては快挙だと、どこか麻痺した頭で綱吉は思う。
 その体勢のまま、呼びかけるでもなく呼ぶ名は、数日前、扉の向こうの少女の姿で向かい合い、言葉を交わした青年。

「オマエが悲しいんだよ、骸」

 それはどこか、自らに言い聞かせるような。
 ―――かなしむ資格すらきっと、ない。


* * *


 暗い昏い水底で、かなしいと泣く子供の声ばかりが響いて、いて。
「…うるさいのですけど、ね…」
 言ってもきっと、届かない。
 伝える気もない。
 言葉は多分に、笑いを含んでいる。
 それはとても、やさしいことばだ。
「まったく…」
 ため息と共に、言葉を吐き出す。
 音なく、声なく、言葉は透明な泡になって浮かんで漂い、静かに溶ける。
 かなしい、と。
 そればかりを繰り返す子供の声。
 あまくやさしい、少女の声。

「な、ぎ」

 大切な、大切な、あまやかな少女の声はただかなしいと、繰り返し続けるばかりで。
 大切と、思う心があらかじめ埋め込まれたものだったとしても、かなしい少女が齎してくれたかなしいまでの優しさは、本当に綺麗だと思えるものだった、から。

 ―――だから彼女だけは守ろう、と。



「六道、骸」
「ボンゴレノ、霧ヨ」
 呼びかける声に応じるのは、笑みと共にこぽりと漏れて、揺らめく、小さな水泡一つ。

「ソロソロ答エハ、決マッタカ?」





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