蜂蜜色した過去(ユメ)を、いつだって、
彼の人形は、愛した人の名を。
彼の老人は、愛した人形の名を。
彼の人は、僕の名を。
「………はぁ………」
柔らかな枕に白い頭を預け、アレンは悩ましく溜息を漏らす。
外気は気候に従って程よく涼しく、薄い布団にくるまれば丁度よいくらい。
組んだ格子の嵌め込まれた窓から差し入る陽光は、薄曇りなのかあまりきつくはなく緩やかな熱と光で室内を満たす。
サイドテーブルの時計の指す時刻は、十一時を少し回った頃。
日常の喧騒は遠く、その空気は正しく眠気を誘う麗らかさだ。
が、一般的に人間がベッドの住人になっているべき時間ではない。
まして、基本的に自己管理を怠らない、この部屋の主にはまずないこと。
そのアレンが、何故こうしてベッドで布団に包まっているのか、といえば。
「……だる、い……」
要するに、体調が優れないということで。
朝、普段通りに目は覚めたものの、妙に熱を帯びた身体は重くて起きるに起き上がれず、お腹が空いている感覚はあるものの一向に食欲もわかず、どうにか持ち上げた掌を自分の額に当ててみれば尋常でなく熱かった。
自覚症状といえば悪寒に頭痛、軽い目眩に過度の倦怠感といったところ。
咳などの症状はないが、触れた額の温度から見てもどうやら自分は風邪を引いたらしい、とアレンは妙に冷静に分析する。
それにしても体中が重く起き上がることすら億劫で、目覚めてから水分の一つも口にしてはいない。
口内が、喉が、引き攣れたように乾いて痛む。
霞む視界に、くらり、と再び、眩暈う感覚。
脱水症状も追加かなと、どこか朦朧とした意識で思う。
久々に引いた風邪は、けれどそろそろくる頃だと分かってはいたのだ。
基本的に、アレンは体の弱い方ではない。
ただ、精神面が身体に影響を及ぼしやすいのも事実だ。
思い出せる内で、純粋に身体的な理由から罹っただろう病気は、物心ついてからでも片手の指に足りるほどだが、精神面の負担からきたと思われる病気やそれに準ずる症状は、ここニ、三年で思いつく限りでも両手両足の指を使ったとしても足りそうにない。
少し情けなく思いながら、そういえばと脳裏を掠めるのは思い出。
どこか焦点の合わない赤味の強い澄んだ茶の瞳にえもいわれぬ柔らかな光が浮かぶ。
窓から注ぐ光がベッドの上に温かな日溜りを作り、顔にかかった温もりと眩しさに、アレンはゆるりとその薄い瞼を下ろす。
淡い銀の睫が光に透け、白い頬に薄く影を落とす。
乾き、かさついた唇から静かに漏れる、苦しいような、満ち足りたような溜息。
夢とも回想ともつかぬ内に行われる、過去の反芻。
それはまだ、幼い頃の記憶。
マナに拾われた、あるかなしかの最初の記憶からほとんど日の経たない頃。
朝から頭が重く、立っているだけでも辛いと感じる日で。
けれどそんなことを言葉に、態度に出せば、初めて自分に温もりをくれたこの温かな人に捨てられてしまうかもしれないという量り知れない恐怖と、この優しい人に自分などのために負担を掛けてしまってはならないという自己卑下にも似た罪悪感が、他人に不調を訴えることを許さなかった。
出掛けのマナに幾度も大丈夫かと訊かれたのにも、その度に笑顔で頷き。
放っておいても治るとたかを括っていたら、昼過ぎに倒れえしまった。
珍しく日暮れ前に帰宅したマナに酷く焦った、それでいて悲しい顔で怒られた。
何を言われていたのかは朦朧とした意識でははっきりしなかったけれど、何度も何度も名前を呼ばれ、寝室へ連れて行ってくれたことまでは覚えている。
後で聞いたところによると、自分は肺炎をおこしかけていて、心配したマナが早めに帰宅してくれていなかったら、命に関わったかもしれなかったらしい。
その後、体調が少しでも悪ければすぐにマナに言うこと、と復唱させられた。
勿論というか、多くの場合守られることはなかったけれど。
遣り過せる程度のこともあれば、すぐにばれてしまうことも、後々悪化して余計に心配を掛けてしまうこともあった。
どちらにしろマナは彼が気付いた時点でアレンを寝室に閉じ込め、それこそ治るまで付きっきりで看病してくれた。
夜中ふと目が覚めても寂しくないようにと、一晩中髪を優しく撫でられ。
酷く申し訳なくて、でもどうしようもなく嬉しくて。
甘やかしてくれる手のひらはいつだって優しかった。
そのマナがいなくなって、師であるクロスに引き取られてからも、変わらず旅から旅への根無し草の生活で。
それは確かにマナと生活していた頃と変わらないといえば変わらなかったけれど、何かから逃れるようなその根無し草の生活に、急激な生活環境の変化と不安定な精神状態のためか、寝食を共にするようになった頃はしょっちゅう体調を崩していた。
けれどマナと暮らしていた頃に比べれば肉体面が格段に丈夫になっていたためか、深刻なほど症状が悪化することもなかった。
不調の度に無理矢理にもそれを押し隠したのは、その事実とマナに拾われたばかりの頃に感じていたのと同様の恐怖と、罪悪感。
けれど何より、それは一種アレンの癖となってしまっていたせい。
不調を押し隠すというより、それ自体を存在しないものとして、切り捨てるようにして、扱う。
裏を返せばそれは、自身をすら切り捨て得る行為。
マナにも、そしてクロスにも悪癖だといわれたけれど、もう今更どうしようもなく。
甘やかすことのない大人の手は、マナのそれとは違い、無茶を続けるアレンに差し伸べられることはなかった。
一度を除いて。
一度だけ、意識を失うまで無茶をした。
身体の不調も、マナの命日が近いことによる精神の不安定も、きっとクロスには見抜かれていたのだろうけれど。
けれど、自分は気付けなかった。
苦しい眠りの中想ったのは、このまま捨てられるかもしれないという、絶望とも言い換えられる不安。
けれど夢うつつに戻った意識の縁に、一晩中ベッドの横について、額を冷やす布を代えてくれたり、不器用に髪を空いてくれた手を感じて。
翌々朝全快し礼を述べたら、それは俺じゃなくて宿の女将だ、と突き放された。
けれど記憶に残る手の感触は、どう考えても女性のそれではなかったし、よくよく観察したクロスの目元にはうっすらと隈が残っていた。
それを見つけたら、ティムキャンピーの映像記録で確かめようかとも思っていた気持ちも失せて。
何より、目覚めた時にまだクロスが傍にいて、捨てられていなかったことが嬉しくて。
嬉しくて、頬が緩んでいたらしく、一日中気持ち悪いと言われ続けた。
では今は?
そこまで考えて、この、黒の教団という特殊な集団の中ですら、自分は酷く異質で孤独なのだということを、思い知る。
個室が与えられ、食事は各々食堂で摂り、特に緊急の呼び出しがない限りは教団の敷地内を離れなければ何をしていようと自由である。
つまり、こちらから働きかけない限り他からの干渉が極端に少ない環境、なのである。
周りには、自分と同様のエクソシストであるものよりもファインダーと呼ばれる探索部隊の者達やデスクワークを主とする科学班や衛生班の者達がほとんどで、況してや自分の容姿境遇を考えると。
動ける程度に回復するのが先か、任務か何かの呼び出しがあるのが先か。
その前に脱水症状か飢餓で意識を失うのが先かもしれない。
ぼんやりと開いた眸に映るサイドテーブルの水差しを眺めながら、けれど起き上がる気力がわいてこない。
詮無いことをつらつらと考えていたせいか、疲労感とも脱力感ともつかぬ感覚が全身を襲う。
いつからか、目の前を忙しなく飛び交う、金色。
先程まで見えなかったはずのそれに疑問を抱くより先に、視界が潤んで、霞む。
ひどく怠く、眠い。
ドアの蝶番の軋む音と人の気配とを感じた気もするが、自衛本能は不審者との闘争に備えるより休息を選んだらしい。
それきりアレンは、半ば意識を失うようにして眠りに落ちる。
夢の欠片すらもない、眠りの深み。
乾いた唇は、きつく閉ざされる。
唇で形作るべき者の名を、闇の奥に沈めた恋い求める者の名を、無意識ですら呼ばぬようにという、それは戒めにも似た。
静寂の満たす空間を、微かに揺らす、僅かな物音。
唇に押し付けられる、冷えた熱と潤み。
本能のままに開いた唇から口腔を満たし、温んだ熱で食道へと流し込まれ行くそれを、無意識のままで嚥下する。
持ち上げることの適わない瞼裏にはただ、闇。
こじ開けられた唇が、一つ、名を呟く。
再び与えられる、冷えた潤み。
怖れているのは/失うことでなく/このくちびるが/さいごの瞬間に/紡ぐものの名が/貴方でなくなる//それだけのこと
自分で考えたにも関わらず題名を未だ覚えられないという致命的な裏話.