残されていたのは。
金色のゴーレムと、己のトランクと、泊まっていた宿屋で溜めたツケ。
それから。
* * *
切り取られただけの部屋の窓から、鮮やかな黄色をした苛烈な陽光。
隣接する象園に向かって開いている窓からは、朝日が漸く昇ったところだというのに既に何頭かの像と像使いの姿が窺える。
その部屋の中、ぱさり、と乾いた音で床に衣を落とす音。
麻で粗く編まれた質素な敷物の上に、縁飾り美しい頭衣の紅の絽が花開くように広がる。
それをそのままに、頭衣を脱ぎ落とした人影はどこか緩慢な足取りで部屋を横切り、殺風景な室内にそぐわない華やかな鏡台の前に立つ。
丁寧に磨かれて曇り一つ見出せない大きな鏡。
そこに映されるのは、木と石の色合いばかりの素朴で殺風景な部屋から切り取られたように浮き上がる、艶やかに装った娘の姿。
濡れたように艶やかな漆黒の髪は、黄金にも見える鮮やかな黄色のゲンダーやバサンティ(マリーゴールド)の生花、玉石を連ねた金鎖を編み込みながら緩く片側で結われ、身に纏う薄く華やかな印度更紗が、その細身の身体の線を隠すような隠さないような曖昧さで婀娜に揺れる。
控えめにあしらわれた装身具も窓からの陽光に或いは蕩け、或いは煌めき、不思議に白い肌を誇らかに彩るよう。
何より、長めの前髪と鮮やかなメヘンディ・ヘナ(ヘンナ・アート)の額飾りの下、銀灰の瞳が色香とも異なる魅力で娘の雰囲気を神秘めいたものに見せている。
けれど、娘の淡く紅を刷いた唇から漏れるのはため息。
それは美しいと称されるに不足ない己の姿に対する陶酔めいたものでは欠片もなく、ただただ疲労し、嫌悪にも似た憂鬱な色を帯びたものだ。
「……本当にもう、最悪だ……あの人……」
呟く声は、少年とも少女ともつかない高さを残す。
ふと泣きたくなるような脱力感に見舞われた瞬間、背後に人の気配。
ふふ、と空気を震わせるだけの笑みを乗せた、それは良く、見知った。
「…アラティーヤさん…」
馴染んだ気配に振り向けば、豊かな胸元の辺りを覆う短い上衣に腰布を纏っただけという、随分と寛いだ風情の女神の華のような美女。
漂う色香に目の遣り場に困りそうなその姿に、けれど凛と纏われる高貴さにも似た空気が婀娜な雰囲気を打ち消すような。
その姿を大輪のジャル・カマル(睡蓮)に喩えたのは、一体誰だったか。
振り向いたままぼんやりと思いに耽る様子の娘の、その愛らしい面が色濃い憔悴に沈んでいるのに、厭味なく女性の朱唇がふふ、と笑む。
「お疲れ、アレンちゃん。お菓子、貰ってきたんだけれど…食べるかい?」
告げるその細腕に抱えられた籠の中には、キシュミーシュ(干し葡萄)やカチョーリー(揚げ団子)、ジャレビ(甘菓子)といったアレンがこの国で好んで口にしていた菓子。
朝は調理されていないもので軽く済ませるこの国にあって、こんな時間に菓子を調達してくれたらしいアラティーヤの気遣いと、目にした好みの甘い菓子に神秘めいていた銀灰の瞳が年相応に輝くが、すぐにその色は翳ってしまう。
「頂きます、けど…。…その前に、着替えたいです…」
というか何より、この衣装を脱ぎたい。
ふと我に帰ったかのようにため息を吐き出す様子の、娘姿のアレンに、
「勿体無いねぇ…。折角美人に仕上げたっていうのに…」
冗談を交える様子もなく心底残念そうに呟くのは、国一番に栄えるこの花街で、三指に入ると言われる妓女たる美女で。
その言葉に更に泣きそうに顔を歪ませるアレンに、アラティーヤはもう一度、心底残念そうにため息を吐く。
「本当に、残念。クロス様のお達しでなければ、何としても手放さないところなんだけれど…。何といっても、素材は極上、器量は上々、おまけに客受けも妓(おんな)受けもいいっていう、3拍子揃っていてさ」
でも、ツケはもう払い終わったものねぇ、と。
手にした籠を質素な敷物の上へと置き、途中拾った紅色の絽をふわりと元のように娘姿の頭に被せ遣りながら、アア残念、としみじみと眺める美女の様子に、アレンは本気で顔を引き攣らせる。
客を相手にしたわけではなく、ただ階下の酒場で男達の相手をする妓女達を手伝っただけである。
しかしたった1週間とはいえ、華やかな衣装で飾り立てられながら愛想を振り撒くという行為は、大道芸の道化とは似て非なるものであり、アレンにもう二度とするものかと固く誓わせるほどに辛いもので。
「……着替えさせえて下さい……」
懇願の色すら帯びた声にアラティーヤは小さく苦笑を洩らし、お茶の用意をしてくるよ、と言い置いて部屋を離れた。
* * *
髪飾り。
額飾り、耳環、首飾り、腕環、足環。
上から順に鈴のように澄んだ音を鳴らす繊細な装身具を外し、身体に吸い付くような薄い更紗の一枚布を解くように脱ぎ落とす。
それから手早く深い青で揃えられた短い上衣と腰布を脱いで、鏡台の脇に整えられてあった白のシャツと黒のズボンを身に着け、ベルトを締めたところでふぅ、とひと息。
さすがに土地のものだけあって、先までの衣装はこの暑さの中、涼しく快適ではあるが、僅かに動くたびに身体の線に沿うように絡むように揺れる裾も、薄い衣だけで仕立てられた衣装の心許なさも、到底慣れ得るものではない。
「…ていうか、慣れたら困る…」
それこそ、色々な意味で。
呟き、また一つ、ため息。
何とはなしに動かした視線の先に、鏡台。
そこに映る、黒髪を結って垂らした、さながら男装した娘のような姿の自分を見て更にもう一つ、ため息。
自分のものではない艶やかな黒髪の中に指を差し入れ、何箇所か留められているピンを手探りで外せば、腕の中に呆気なく落ちてくる結われたままの黒髪と、軽く涼しくなった見慣れた白髪の頭。
それから黒の結い髪で隠されていた左目を、縦に裂いて走る、呪いの傷跡。
それら全て、罪の証だ。
癒えることない呪いの傷跡は、敬愛する養父を穢し屠った、親殺しの罪。
色を落とした白の髪は、罪から目を逸らし逃げようとした、心の弱さ。
救いの在り処を示してくれた、緋色の髪と琥珀の瞳の男は去り、次に目指す先は余りに遠くてふと迷子のような心地に陥る。
捨てられていた、覚えもないほど幼い頃を除き、自分は一人になったことがないのだということに今更ながらに気付き、背筋に嫌な汗が伝う。
本当に自分は、歩き続けられるのか。
指し示され、自ら求め、定めたこの道を、躊躇うことなく真っ直ぐに。
一人で、も?
不意に身を襲う絶望にも似た不安に、崩れ落ちそうになった瞬間。
「イタっ!」
パタパタと短い羽音に続いて、硬い作り物の歯が耳に噛み付く慣れた痛み。
慣れた、といってもそれは思わず声を上げてしまうほどには、痛い。
「ティムキャンピー…」
それはアレン自身の荷物と宿屋のツケの他に、唯一師が残していったゴーレム。
その顔のない面がどこか怒っているように見え、アレンは痛む耳を押さえながら素直にごめんと謝る。
自分の思考が歪みそうになった時、歩むことを諦めようとした時、いつも傍にいたこの金色のゴーレムはどうしてか察し、こうして叱るように耳や指に噛み付くのだ。
まるでどこか、励ますように。
じんと痺れを残す、強い痛み。
その痛みに、少なくともまだ一人ではないことを思い出す。
「……ありがとう」
呟くように告げれば、ふいと耳から離れたゴーレムが小さな羽音を立てて部屋の隅の方へと向かうよう。
「ティム?」
呼べば一度だけ振り返り、けれど戻ってくる様子はない。
まるで、そちらに来いとでも言うように。
「何かある?」
広くもない部屋の隅、置かれているのは自らの荷を詰めたトランクくらいだ。
装飾の何もない、けれど丈夫な黒の革製のトランク。
しかし目にしたそれに、微かな違和感。
「あ、」
その正体は、すぐに知れる。
見開かれた銀灰の瞳が映すトランクの、その持ち手に結び付けられた細い縞のリボンタイ。
いつだったか師から一式与えられた衣服の中にあったタイは修行など激しく動く時を除けば常にアレンが身に着けていたもので、調えられていた衣服の中になかったことに疑問を感じていたのだけれど。
「…ああ、もう」
その時与えられたのは、光沢のある深い赤で染められた、リボンタイ。
けれど今、黒のトランクに素っ気無く結び付けられているのは。
「………ああ、もう」
再び口を突く、同じ言葉。
続けるべき言葉が、思いつかない。
残された、師の技の結晶であろう、金色のゴーレム。
残された、リボンタイ。
深い赤のそれではなく、深い緑の細縞の、それ。
それはつい先日、別れの頃まで師の胸元に結ばれていたものと、同じ。
「…甘やかし過ぎ、じゃないですか…」
次に会った時何を言われるか、何をさせられるかが、恐いくらい。
それでも。
伸ばした指先に触れるのは、新品のものとは違う柔らかな布の感触。
それが予想と違わず、師の持ち物であったことをアレンに教える。
しゅるり、と微かな音を立てて解け、手のひらに収まったタイを短い間見詰めて、そのまま慣れた仕草で胸元にそれを結ぶ。
指し示された先に導く背中はなくなったけれど。
それでも、分かりにくいまでに捻くれた訓えは、胸の内にあるから。
だから。
「歩いていきます」
誓いの言葉を、もう一度。
今度は自分へと、紡いだ。
* * *
「サブ・マン・ヘ?」
アラティーヤの用意してくれたマサラ・チャイ(ミルク・ティ)を啜りながら、差し向かいに並んだ美しい顔が紡いだ言葉に首を傾げる。
直訳すれば「全ては心だ」といったところか。
然程この国の言葉に詳しくないアレンは、アラティーヤの声が唄うように告げたその言葉の意味を図りかね、問うように銀灰の瞳を正面の女性へと向ける。
直に座り込んだ床の敷物の上、並べられているのは先ほどアラティーヤが持ち込んでくれた菓子の他にも数種類のビスケットやナムキン(甘くない茶菓子)、マンゴーやリチー、キンニーなどの目に鮮やかな果物。
それらを次々に胃に収めていくアレンを楽しげに眺めながら、アラティーヤは唇を綻ばせる。
「そう。全ては心の齎すもの。全ての人に、各々のの心が。 あなたには、あなただけの心が」
意味するのは、そんなところかしら。
軽く小首を傾げるように笑う女性は、まさに物言う華とでも言う風情。
アレンの疑問にそう返すアラティーヤの言葉を自分の内に沁み込ませながらも、アレンは未だ消えぬ疑問を口にのせる。
「…どうして、それを僕に伝えるんですか?」
本気で首を傾げる様子のアレンに、アラティーヤはその朱唇緩く吊り上げる。
「ここ数日、アレンちゃんずっと不安定だったからね。だからといって、私の言葉では伝わらないのは分かっていたし。クロス様の心は私には分からない…アレンちゃんでなければ、ね。けれど、必要なかったみたいだねぇ?」
すい、と伸ばされる腕から指先には、メヘンディ・ヘナ(ヘンナ・アート)で染められた優美で気の遠くなるほど緻密な紋様装飾。
その細い指先が掬うのは、アレンの首元に結ばれた、深い緑の細縞の、リボンタイ。
「クロス様の、なさっていたものね」
良く似合うわ、と。
艶やかに笑むその深い漆黒の瞳に、全てを見透かされているのを知る。
「気をつけて、行ってらっしゃい」
アレンちゃんだけの、道を。
優しい笑みに、優しい心に。
精一杯の笑みを返して。
残されていたものは。
金色のゴーレムと、己のトランクと、泊まっていた宿屋で溜めたツケ。
それから。
深い緑の縞のタイと、胸の内に残る訓え。
「行ってきます」
告げた言葉は、鮮やかに苛烈な、黄色の陽光に溶けた。
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第2夜:満月の夜 より / アレン,インドにて.