雪の道。
古びた、木の箱。
「みぁ」
か細い声に落とした視線に、あった瞳は碧と白。
柔らかそうな毛並みが、綺麗な処女雪の色をした、仔猫。
「…捨てられたの?」
家路を急ぐ多くの人が足早に箱の前を行き過ぎていく中、仕事帰りのモアはふと気を引かれて箱の前にしゃがみ込む。
深くもない木箱の中、敷かれているのは荒く千切られた新聞紙だけで、少し離れた場所にひしゃげて割れた木の蓋が打ち捨てられている。
昼間、子供が閉め忘れたかしたものが、幾人かの人間によって気付かぬまま踏み潰されてしまったのだろう。
箱の中と蓋の上、薄っすらと積もった雪に、そんなことを思う。
「お前、何て名前?」
箱の中、仔猫に問うたところで答えなど返るはずもなく。
なぁ、と再び頼りなく零される鳴き声に、思わず手を伸ばす。
「おいで…」
手袋を外して、差し伸べた右の手。
冷えた小さな身体は、温もりを求めているだろうと差し伸べた、その手に。
「っ、?」
軽い、衝撃。
驚き思わず引いた右の手の甲に、浅い引っかき傷。
冷えた空気にわずかにひりつくそれに一度目を落とし、それから再び仔猫へと視線を移せば、そのオッド・アイに強い怯えの色を宿して、威嚇するように白の毛を逆立てている。
「………?」
観察するかのように互いが互いを見つめる、小さな、張り詰めた空間。
そんな中、ふと感じた違和感にモアは小さく首を傾げる。
柔らかそうな、けれど今は堅く逆立った毛並みは、処女雪の白。
強い怯えと警戒を宿す大きな瞳は、オッド・アイ。
右目の碧。
左目の、白。
白?
「左目、見えないの……?」
小さな問いに、勿論答えは返るはずもない。
ただ強い、強過ぎる警戒を剥き出しにして震える仔猫。
淡い残照に右目の碧は透き通って、瞳孔が細く引き絞られるのとは対照的に、左目の白は濁って光を通さず、瞳孔の有無も窺えない。
そして、差し伸べた右手が過ぎたのは、左目の横。
つまりは、仔猫の完全な死角であったろう、位置で。
感じた疑問は恐らく正しく、過ぎる強い警戒の理由も、漸く知れる。
なぁ。
もう一度、震える声がか細く鳴く。
時は夕暮れ。
通りを背にしゃがんだモアの後ろを足早に家路を急いで過ぎ行く人波はもうそろそろ途切れる頃で、もし今彼女が見捨ててしまえば、雪のちらつく冬空の下、きっと一晩だってこの小さな生命は耐え得ないだろう。
「…おいで…」
今度差し伸べるのは、左の手。
同じように手袋を外してゆっくりと、ゆっくりと差し伸べた手に、冷えたやわらかさが、触れる。
そのまま雪に湿った毛並みを幾度か梳かしてやって、まるい瞳が気持ちよさげに細まる頃、そっと持ち上げる。
両手で包み込んで抱き上げた、小さな生命。
温かいはずのそれは、雪と外気に凍えて冷たい。
モアの手のひらの温もりに縋るように震える仔猫に、寒いわね、と小さく呟く。
日は完全に落ちて、辺りは既に薄暗い。
家路を急ぐ人々に紛れて同様に足早に歩むモアの首筋を、一際冷えた夜の色の風がざっと撫で去っていく。
竦めた首の辺りを舞う髪は、漸く髪先が肩に触れるほど。
もう、か、やっと、か。
半年ほども前になる不可思議で奇怪な出来事の後、モアは腰ほどまでもあった自らの髪を、何かを振り切るように耳が漸く隠れるほどの長さに切り落とした。
どこか我武者羅に過ぎた月日の分だけ、短かった髪は伸び。
それでもやはり、心許ない首筋は冬の風には寒くて。
「…さむい、ね…」
もう一度、小さく呟いて手のひらの小さな命を抱きしめる。
小さな命。
そういえばあの少年も腕に抱いた小さな というにはいささか大きかったかもしれない 命を嘆いていた。
通りすがりに袖の端の触れ合うような、そんな些細な縁のあっただけの猫。
両手の内で、文字通り砕け散った命に、ただ涙するでもなく嘆いていた、白い髪の不思議な少年。
思い出した少年の髪の色と、両手の内の小さな毛並みの色が不意に重なって。
「アレン…」
ふと、唇から零れ落ちた名前。
その名に。
「みぁあ」
小さく、まるで名を呼ばれたかのように応じる声。
「お前、アレンって言うの?」
何だかおかしくて、くすくすと笑み混じりに問い返せば、もう一度なぁ、と鳴き声。
「そう。じゃあ、アレン、ね」
見えてきた自宅の窓は相変わらず暗くて、未だ慣れることはなく。
その隣、教会のあった場所は崩され瓦礫は除けられて、広がる空き地は殺風景で寒々しく、哀しい。
それでも今日は、少しだけ寒くて、少しだけ温かい。
「家に着いたらまずお風呂ね、アレン」
あったまらなきゃ、と。
凍えた毛並みを抱いて、更に少し、歩を早める。
敬愛する姉と義兄とを救ってくれた、白い髪の不思議な少年。
思い出、と。
呼ぶにはまだ余りにも生々しくて、無意識に思い出すことを己に禁じていたその姿を、今漸く想いながら。
笑っていれば、いいと思う。
泣けていれば、いいと思う。
今度彼に会えたら、あの時告げ損ねた感謝の言葉を真っ先に告げようと思いながら、モアは玄関の鍵を扉に差し込んだ。
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第1夜:openingより / モア・ヘッセ嬢によせて.